tの生《は》えた庭の奥まったところにある離座敷《はなれ》に行って着いた人達は、早く届いた荷物と一緒に岸本を待っていた。岸本は東と北との開けた古風な平屋造りの建物の中に新しい栖所《すみか》を見つけた。二間あって、一方を自分の書斎に、一方を子供等の部屋に宛《あ》てることが出来た。
「なあんだ――寄宿舎かと思ったら、宿屋だ」
 この繁の言葉がそこに集っている一同を笑わせた。しかし泉太も繁もこの下宿へ移って来たことをめずらしそうにして、離座敷から母屋《おもや》の方へ通う廊下をしきりに往《い》ったり来たりした。
 丁度昼飯時に当っていた。岸本は祖母さん達と一緒に食事をして、いろいろ世話に成った礼を述べて一同と別れた。この下宿へは岸本は最近に台湾の方から上京した一人の学生をも伴って来ていた。もう長いこと台湾に暮している民助兄からの紹介で。仮令《たとえ》しばらくの間でもその青年を世話しながら一緒に住むことは、子供を控えた岸本に取って何より心強かった。最早彼は泉太や繁に取っての父親であるばかりでなく、同時に母親であった。この生活の方法は可成《かなり》な時と注意と力とを子供のために割《さ》き与えねば成らなかったとは言え、大いに彼の心を安んじさせた。何となく彼は隣の家を出て、自分の家へ移って来たような思いをした。

        八十六

「叔父さんはわたしの失望して通りすぎた道をこれから歩もうとしていらっしゃる。叔父さんはわたしと違って、きっと成功者ですよ――なんにも失望することが無いんですもの。この間お話をうかがって、育児などということに興味をもって来たと仰《おっしゃ》った時、一寸《ちょっと》不思議のように思われましたが、それはやがて男と女の相違であるかも知れません。わたしは母と名のついた時からでございます、自分の失われたものの為に願ったこと、それからわたしが求めても求めても得られなかったものを他の子供にと思い立ちました。それは子供の真の要求であろうと思ったからでございます。わたしの力は小そうございます。けれども心ばかりは決して人に劣らないつもりでございました。しかし全然考えを異にした一家族でございますもの、どんなに力を尽しましても、同じ軌道に立つことは出来ませんでした。一二箇月もかかって漸《ようや》く築きたてたばかりの根拠も直《す》ぐ破られてしまいますもの。子供をほんとうに一個
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