ウんは今朝《けさ》はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
二階へ雑巾《ぞうきん》がけに来た婆やがそれを岸本に訊《き》いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁《おみおつけ》がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺《おれ》はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可《い》い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体《からだ》は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家《うち》じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下《した》へ降りて行った。岸本は独りで手を揉《も》んで見た。
岸本は人知れず自分の顔を紅《あか》めずにはいられなかった。もしあの河岸《かし》の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔《やわらか》い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の弘のように「兄さん、兄さん」と言って親身の兄弟のように思っていてくれる人や、それから自分のために日頃心配していてくれる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしてもまだ羞《は》じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞにも想い到《いた》って、「君はもっと早く死んでいた方が好かった」とあの亡《な》くなった友達にまで笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
もしこれが進んで行ったら終《しまい》にはどうなるというようなことは岸本には考えられなかった。しかし、すくなくも彼は自分に向って投げられる石のあるということを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思い出すことが出来る。その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁《みのが》しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向って制裁と打撃とを加えねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代ってそれらの人物を筆誅《ひっちゅう》するに外ならないのであると。こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の
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