゚ようとして紙のはじにこれを書きつけて見た。満天星も、梅も、躑躅も、椿も、樫も、彼の部屋の外の縁側から直《すぐ》庭先に見られるものだ。何かの深い微笑のように咲く椿の花、言葉のない歌を告げ顔な歌わない小鳥、それらはみな彼の心の光景だ。
「言わなくたって、もう分ってます」
この言葉を残して置いて行った節子は、世の幸福を捨てて岸本に随《したが》おうとする彼女の意志を明かにした。過去に於《お》いて罪の深いもの同志が互に世の幸福を捨てるということは、実に一切を捨てるということであった。
新しい愛の世界が岸本の前に展けかかって来た。恥じても恥じても恥じ足りないように思った道ならぬ関係の底からこれだけの誠実《まこと》が汲《く》めるということは、岸本の精神《こころ》に勇気をそそぎ入れた。そこから彼は今まで知らなかったような力を掴《つか》んだ。
五十九
岸本の過去は不思議なくらい艱難《かんなん》な日の連続で、たださえ頑《かたくな》な彼はその戦いのために余計に自分の心を堅く閉じ塞《ふさ》げてしまった。何よりも先《ま》ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない、とはかねて巴里の客舎にある頃の彼の述懐であったが、どうしても彼にはその心に立ち帰ることを許されなかった。火葬場の鉄の扉《とびら》の前に立って灰になった妻の遺骨を眺めても唯《ただ》それを見つめたきり涙一滴流れなかったほどこの世の苦しい傍観者としてあった長い年月の間と言わず、冷然として客舎の石の壁に対《むか》い合っていたような三年の遠い旅の間と言わず、彼の思い続けて来たのは実際次の言葉に籠る可傷《いたま》しい真実であった。
「我等芸術の憐《あわれ》むべき労働者よ。普通の人々にはしかく簡単に自由を与えらるることも我等には何故に許されぬのだろう。それも理《ことわり》である。普通の人々は真心《ハアト》を持つ。我等は遂《つい》に真心の何物をも持たぬ。我等は到底理解せられざる人間である……」
こうしたことを思い続けた岸本の上にも不思議な変化が日に日に起って来た。彼は持って生れたままの幼い心に立ち帰って行ける日が漸くやって来たことを思い知るように成った。その時になって彼は心から自分の情熱を寄せ得るもののあることを見出した。その歓《よろこ》びを見出した。彼のように寂しい道を歩きつづけて来たものでなければ、どうしてそれほど餓《う
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