痰フ二階の方へ行く度に、時々岸本の頭脳《あたま》の内《なか》はシーンとしてしまった。同時に彼の耳の底にはこういう声が聞えた。
「お前はほんとうに人を憐《あわれ》んだことがあるか。もう一度夜明を待受けるようにして旅から帰って来たお前の心は全体の人の上に向っても、お前の直ぐ隣に居る人の上には向わないのか。お前の眼にはあの半分死んでいる人が見えないのか。その人を憐まないで、お前は誰を憐むのだ」
一度恐ろしい火傷《やけど》をした悲痛な経験のあるものが今一度火の中へ巻き込まれて行った。岸本が、節子に対する関係は丁度それによく似ていた。しかし彼はもう以前の岸本では無かった。独身を一種の復讎《ふくしゅう》と考えるほど、それほど女性を厭《いと》い悪《にく》むものでは無かった。二度と同じような結婚生活を繰返すまいとし、妻の残した家庭を全く別の意味のものに変えようとし、際涯《はてし》無く寂寞《せきばく》の続く人生の砂漠《さばく》の中に自然に逆ってまでも自分勝手の道を行こうとしたような、そうした以前の岸本では無かった。彼は神戸に着く晩は眠るまいと思うほどの心でもって遠くから故国の燈火《ともしび》を望みながら帰って来たものだ。陸の上に倒れ伏し、懐しい土に接吻したいとさえ思うほどの心でもって長い旅から草臥《くたび》れて帰って来たものだ。
深い哀憐《あわれみ》のこころが岸本の胸に湧《わ》いて来た。そのこころは節子を救おうとするばかりでなく、また彼自身をも救おうとするように湧いて来た。
三十八
節子を憐めば憐むほど、岸本は事情の許すかぎり出来るだけの力を彼女のために注ごうとするようになった。彼が現に負いつつある重荷も、義雄兄夫婦や祖母《おばあ》さんへの礼奉公も、すべては彼女のためと考えるように成った。何よりも先《ま》ず彼は節子の身から養ってかからせたいと考えた。彼女の虚弱、彼女の無気力は、雑草の蔓《はびこ》るに任せた庭のように、あまりに関《かま》わずにあるところから来ていると考えたからで――止《や》むを得ない家庭の事情から言っても、人を憚《はばか》りつづけて来たような彼女自身の暗い境遇から言っても。
岸本はまた親掛りでいる節子に働くことを教えようとした。今まで通りにして暮して行くにしても、すくなくも彼女のために自活の面目の立てられる方法を考えてやりたいと思った。それに
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