、な嫂を見た。
庭の方では次郎の独《ひと》りで歌い歩く声が起った。この子供は時々縁側から上って来て、皆の見ている前で母親の懐《ふところ》を探った。
「次郎ちゃん、叔父さんが見てお笑いなさるよ」
と嫂は言いながらも、誰よりもその末の児が可愛くて可愛くてならないと云う風で、その年齢《とし》になってもまだ乳房を吸わせていた。岸本の鞄の底からは、泉太や繁の世話になった人達へと用意して来た志ばかりの巴里土産も出て来た。彼はそれを嫂の前にも節子の前にも置いた。いずれも巴里のサン・ゼルマンの並木街なぞを歩き廻って見立てて買って来たものであった。あの産科病院前の下宿からわざわざ地下電車で「オペラ」附近の繁華な町の方まで探しに行って来たものもある。遠い旅を記念する心は、贈られる人よりも、反《かえ》って贈る人の方に深かった。
「まあ、こんなにめいめいへ御心配なすって」
と礼を言う嫂の眼は険しく光った。
二十二
長い留守の間のことを聞いて見たい。その心は岸本に取ってどれ程強いものであるか知れなかった。彼はよく旅の空で帰り支度《じたく》をする頃にそう思った。もし無事に故国に辿《たど》り着くことが出来たら、あの事も聞いて見たい、この事も聞いて見たいと。今、嫂達は彼の側に居る。けれども自分の秘密がこの人達に隠してあるかぎり、長い留守の間の事で言出し得ることはほとほと少かった。嫂達が郷里を引揚げて上京した頃のことを聞いて見ようとする、と直《す》ぐ節子や子供等を置いてこの家を逃出した自分のことに触れて来る。輝子(節子の姉)が露領の方から帰国してこの家に居た頃のことを聞いて見ようとする、と直ぐ節子が人目を避けるために一時この家に居なかったことに思い当る。眼前《めのまえ》に戯れ遊ぶ次郎を見ていても、直ぐ彼の胸には平気で居られないような聯想《れんそう》が迫って来た。節子の産落《うみおと》したという男の児は丁度この短い着物に巾着《きんちゃく》なぞを着けた嫂の子供と同じ年齢《とし》であったから。
岸本は気を取直して、旅から持って来た別の鞄を解いて見た。
「姉さん、こういう人形が出て来ました。祖母さんにもお眼に掛けますかナ。これは君ちゃん(岸本の末の女の児)に遣《や》ってくれッてそう言って、巴里の下宿の主婦《かみさん》がくれてよこしました」
「どれ――まあこのお人形さんは可愛らし
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