ナ《かたづ》いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸《ようや》く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎《ふくしゅう》を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷《きずつ》けた。
九
書斎の壁に対《むか》いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
こんな偽りのない溜息《ためいき》が、女のさかりを思わせるような年頃で亡《な》くなった園子を惜しみ哀《かな》しむ心と一緒になって、岸本には起きて来たのであった。妻を失った当時、岸本はもう二度と同じような結婚生活を繰返すまいと考えた。両性の相剋《あいこく》するような家庭は彼を懲りさせた。彼は妻が残して置いて行った家庭をそのまま別の意味のものに変えようとした。出来ることなら、全く新規な生涯を始めたいと思った。十二年、人に連添って、七人の子を育てれば、よしその中で欠けたものが出来たにしても、人間としての奉公は相当に勤めて来たとさえ思った。彼は重荷を卸したような心持でもって、青い翡翠《ひすい》の珠《たま》のかんざしなどに残る妻の髪の香をなつかしみたかった。妻の肌身《はだみ》につけた形見の着物を寝衣《ねまき》になりとして着て見るような心持でもって、沈黙の形でよくあらわれた夫婦の間の苦しい争いを思出したかった。
岸本の眼前《めのまえ》には、石灰と粘土とで明るく深味のある淡黄色に塗り変えた、堅牢《けんろう》で簡素な感じのする壁があった。彼は早《はや》三年近くもその自分の部屋の壁を見つめてしまったことに気がついた。そしてその三年の終の方に出来た自分の労作の多くが、いずれも「退屈」の産物であることを想って見た。
「
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