「た》しい調子は彼女の手紙の中に無かった。殊《こと》にその最近の便りは、旅に来て岸本が彼女から受取ったかずかずの手紙の中でも一番|心易《こころやす》く読めるような、わだかまりの無い調子で書いてあった。
「節ちゃんもこういう調子でいてくれると難有《ありがた》い」
思わず岸本はそれを言って見た。同時に、その年齢《とし》までまだ身もかため得ずにぶらぶらしているらしい彼女の事が、何となく無言な力をもって岸本の胸に迫って来た。
三
国の方で持上《もちあが》る節子の縁談に就《つ》いては、岸本は全くそれを知らないでも無かった。東京の義雄兄からは、まだそんな話のきまらない前に、一度巴里へ知らせてよこしたことも有った。岸本はその便りを読んだ時に、節子には早く身を堅めさせたいというあの兄の焦《あせ》った心を知り、先方《さき》の望み手というは毎月六七十円の収入のある勤め人であることを知り、その人が徳川時代に名高かったある学者の子孫にあたるということをも知った。兄はまた、その縁談の纏《まと》まることを希望しているとも書いてよこした。その後、兄からは何の沙汰《さた》もなく、節子自身からの折々の便りの中にも何もその事に就いて書いて無いところを見ると、恐らくその話は立消《たちぎえ》になったものであろうと思われたが――
こうした消息を胸に浮べて見る度《たび》に、節子が人知れず産み落した子供のこと、切開の手術を受けたという彼女の乳房のこと、何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったという彼女の身体《からだ》のこと――否《いや》でも応でも岸本の心はそれらの打消しがたい隠れた秘密に触れない訳には行かなかった。これから国をさして帰って行こうとする彼は、過ぐる三年近くの間自分の顔をそむけようとし、心の眼を塞《ふさ》ごうとし、どうかして旅に紛れて忘れよう忘れようとした、その恐しいものに面とむかわねば成らない。彼は写真の中で見てさえマブしいような義雄兄の前に自分を持って行って見た。一語《ひとこと》世話を頼むとも言えずに子供を置いて逃出して来た嫂《あによめ》の前に自分を持って行って見た。何事《なんに》も知らずに住慣れた郷里を離れて嫂と共に上京した祖母《おばあ》さんの前に自分を持って行って見た。それから、それらの人達の集っている中で、もう一度帰って行って
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