メ侘びていないものは無かった。寒苦、寒苦――この避け難い戦争の悩みの中で、世界の苦の中で、草木の再生がやがて自分等の再生であることを願っていないものは殆ど無いかのように見えた。
 毎日のように岸本は部屋の壁に掛る仏蘭西の暦の前へ行った。日も余程長くなって来た。空も明るくなって来た。最早|煖炉《だんろ》なしに暮すことも出来た。一雨|毎《ごと》に彼は春の来るのを感じた。漸くマロニエの芽もふくらんで来るように成った。彼はあらゆる草木が復活《いきかえ》る中で、やがて来る若葉の世界を待つのを楽みにした。白い蝋燭《ろうそく》を立てたようなマロニエの花が若葉の間に咲いて、冷い硝子窓《ガラスまど》からも、石の壁からも、春の焔《ほのお》が流れて来るのは最早遠くは無かろうと思われた。
 そよそよと吹いて来る夕方の南風に乗って独逸《ドイツ》の飛行船までがやって来るように成った。ある仏蘭西の記者の言草ではないが、あの「空中の海賊」が巴里の市中と市外とに爆弾を落して行った最初の夜は、岸本はその騒ぎも知らずに熟睡していたくらいであった。翌晩、けたたましい物音に彼は床の上で眼を覚《さま》した。喇叭《らっぱ》を鳴して飛ぶ警戒の自動車が深夜の町々を駆け巡《めぐ》った。復《ま》た彼は敵の飛行船の近づいたことを知った。急いで部屋を出て見ると、台所には震えながら祈祷《いのり》をあげている下宿の主婦《かみさん》がある。屋外《そと》には暗い空を仰いで稲妻《いなずま》のような探海燈の光を望む町の人達がある。こうした巴里に身を置いても、彼はそれほど恐ろしくも思わないまでに戦時の空気に慣れて来た。「燕《つばめ》のかわりに飛行船が飛んで来ました」そんなことを云って下宿の人達を苦笑《にがわら》いさせた位であった。それよりも彼はこうした巴里の状況が電報で伝えられて、遠く国の方に居る親戚や知人を心配させることを気遣《きづか》った。
 岸本は旅の窓で、自分を待暮している泉太や繁のことを思い、義雄兄|宛《あて》に知らせてやった帰国の時が子供等の耳に入る日のことを想って見た。それから、もう一度あの不幸な節子を見る日の来ることをも想って見た。それを考えると思わず深い溜息《ためいき》が出た。

 眼前《めのまえ》の戦争から、岸本はその中に動いているいろいろな人の心を読むように成った。丁度あの「アンナ・カレニナ」の終に書いてあるヴロン
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