ナは似てるかと思う。僕は死をもって争った。それでも行く人をどうすることも出来なかった。僕は自分の方から別離《わかれ》を告げましたよ――尤《もっと》も僕の場合には、先方《さき》に許婚《いいなずけ》の人がありましたがね」
 岸本は平素めったに口にしたためしも無いようなことを皆の前に言出した。

        百二十五

 岸本はこの仏蘭西の旅に上って来た時、神戸の旅館で思いがけなく訪ねて来てくれた二人の婦人に邂逅《めぐりあ》ったことを忘れずにいる。二十年の月日を置いて逢って見たあの人達はもう四十を越した婦人でも、二十年前に亡《な》くなった人は何時《いつ》までも同じ若さの女として岸本の胸に残っている。彼が岡や小竹を前に置いて思わず言出したのは、あの神戸で邂逅った婦人等の旧《ふる》い学友にあたる勝子のことであった。青木、市川、菅《すげ》、足立《あだち》――それらの友人と互いに青春を競い合うような年頃に、岸本はあの勝子に逢《あ》った。すべてまだ若いさかりの彼に取って心に驚かれることばかりであった。不思議にも、世に盲目と言われているものが、あべこべに彼の眼を開けてくれた。彼の眼は勝子に向って開けたばかりでなく、それまで見ることの出来なかった隠れた物の奥を読むように成った。彼は自分の身の周囲《まわり》にある年長《としうえ》の友達や先輩の心にまで入って行くことが出来たばかりでなく、ずっと遠い昔に情熱の香気の高い詩歌なぞを遺《のこ》した古人の生涯を想像し、誰しも一度は通過《とおりこ》さねば成らないような女性に対する情熱をそれらの人達の生涯に結び着けて想像するように成った。若い生命《いのち》がそこから展《ひら》けて行った。
 しかし彼の前に展けた若い生命とは、そう明るく楽しいばかりのものではなくて、寧《むし》ろ惨憺《さんたん》たる光景に満たされた。彼は自分の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎ放されて結局父親の命ずるままに他へ嫁いて行く勝子を見た。簡単に言えば、彼が貧しかったからである。彼は同じ年の若さであっても、今少し豊かな家に生れたならば彼女を引留め得べき多くの暗示を受けたことを忘れることが出来なかった。彼のささげ得るものとては、一片の心のまことに過ぎなかった。「わたしはお前を愛する、わたしの身体《からだ》はもう死んだも同じものだ、残るものは唯《ただ》お前
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