@こういう子供の問は節子を弱らせるばかりでなく、夏まで一緒に居た輝子をもよく弱らせたものだ。
「何方《どっち》も」と節子は姉が答えたと同じように子供に答えた。
「学校の先生と兵隊さんと何方が強い?」
「何方も」
 と復《ま》た節子は答えて、そろそろ智識の明けかかって来たような子供の瞳《ひとみ》に見入っていた。
 岸本は思出したように、
「こうして経《た》って見れば造作《ぞうさ》もないようなものだがね、三年の子守《こもり》はなかなかえらかった。これまでにするのが容易じゃなかった。叔母《おば》さんの亡《な》くなった時は、なにしろ一番|年長《うえ》の泉ちゃんが六歳《むっつ》にしか成らないんだからね。熱い夏の頃ではあり、汗疹《あせも》のようなものが一人に出来ると、そいつが他の子供にまで伝染《うつ》っちゃって――節ちゃんはあの時分のことをよく知らないだろうが、六歳を頭《かしら》に四人の子供に泣出された時は、一寸《ちょっと》手の着けようが無かったね。どうかすると、子供に熱が出る。夜中にお医者さまの家を叩《たた》き起しに行ったこともある。あの時分は、叔父さんもろくろく寝なかった……」
「そうでしたろうね」と節子はそれを眼で言わせた。
「あの時分から見ると、余程《よっぽど》これでも楽に成った方だよ。もう少しの辛抱だろうと思うね」
「繁ちゃんが学校へ行くようにでも成ればねえ」と節子は婆やの方を見て言った。
「どうかまあ、宜《よろ》しくお願い申します」
 こう岸本は言って、節子と婆やの前に手をついてお辞儀した。

        八

 下座敷には箪笥《たんす》も、茶戸棚《ちゃとだな》も、長火鉢も、子供等の母親が生きていた日と殆《ほと》んど同じように置いてあった。岸本が初めて園子と世帯《しょたい》を持った頃からある記念の八角形の古い柱時計も同じ位置に掛って、真鍮《しんちゅう》の振子が同じように動いていた。園子の時代と変っているのは壁の色ぐらいのものであった。一面に子供のいたずら書きした煤《すす》けた壁が、淡黄色の明るい壁と塗りかえられたぐらいのものであった。その夏岸本は節子に、節子の姉に、泉太に、繁まで例の河岸《かし》へ誘って行って、そこから家中のものを小舟に乗せ、船宿の子息《むすこ》をも連れて一緒に水の上へ出たことがあった。それからというものは、「父さん、お舟――父さん、お舟――」と
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