怩オた新しい旅の心に掩《おお》い冠《かぶ》さって来た。
百十二
濃い霧で町の空も暗い日が続いた。時としては町々の屋根に近い空の一部に淡黄な光のほのめきを望み、時としてはめずらしく明るく開けた空に桃色の雲の群を望むような日があっても、復《ま》た復た暗く閉じ籠《こ》められた心持で暮しがちであった。戦時の寂しい冬らしく万物は皆な凍り果てた。寒い雨の来る晩なぞは、岸本は遠く離れている友人等の名前を呼んで見たいと思うことすら有った。彼は東京の加賀町の友人から絵葉書のはしに書いてよこしてくれた「|寂寞懐[#レ]君《せきばくきみをおもう》」という言葉なぞを胸に浮べながら、窓に行って眺《なが》めた。
六頭の馬に挽《ひ》かれた砲車の列が丁度その町を通った。一砲車|毎《ごと》に弾薬の函《はこ》を載せた車が八頭の馬に挽かれてその後から続いた。街路に立って見る市民の中には一語《ひとこと》熱狂した叫び声を発するものもなかった。いずれも皆静粛な沈黙を守って馬上の壮丁を見送るもののみであった。戦時の空気はそれほど濃い沈鬱《ちんうつ》なものと成って来ていた。岸本は水を打ったようにシーンとしたこの町の光景を自分の部屋から眺めて、数月前よりは反《かえ》って一層胸を打たれた。彼はリモオジュから帰って来てから以来《このかた》、一日は一日よりこの空気の中へ浸って行った。激しい興奮と動揺との時は過ぎて、忍耐と抑制との時がそれに代っていた。
岸本は自分の部屋を見廻した。戦争以前よりはもっと濃い無聊《ぶりょう》がそこへやって来ていた。
「ああ、復た始まった」
とそれを思うにつけても、よく目的《めあて》もなしに町々を歩き廻り、寄りたくもない珈琲店《コーヒーてん》へ行って腰掛けたりするより外に時の送りようの無いような、その同じ心持が復た繰返し起って来ることを忌々《いまいま》しく思った。窓から射《さ》して来ている灰色な光線は、どうかすると暗い部屋の内部《なか》を牢獄《ろうごく》のように見せた。周囲が冷い石で繞《かこ》われていることもその一つである。寝る道具から顔を洗う道具から便器まで室内に具《そな》えつけてあることもその一つである。親戚《しんせき》や友人や子供等から全く離れていることもその一つである。訪れるものも少なく、よし有っても故国の食物の話や女の話なぞに僅《わず》かに徒然《つれづれ》を
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