本さんです。こちらは牧野さんと仰《おっしゃ》って矢張《やはり》巴里に来ていらっしゃる美術家です」
こんなことを言って、主婦は姉という人に岸本等を引合わせた。黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着けた背の低いお婆さんは物静かな調子で一々遠来の客を迎えた。
土地の子供の煩さかったことは、葡萄棚に近く窓のある食堂で岸本等が楽しい夕飯に有付《ありつ》いた時にも石垣の外から覗きに来るものがあるくらいであった。こうした場所にも関《かか》わらず、停車場前に戻り、そこに一夜を送って、サン・テチエンヌ寺の塔を宿屋の窓の外に望みながら朝霧の中に鶏の声を聞いた時は、実に彼は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る静かな田舎に身を置き得た心地《ここち》がした。
九十五
国を出て早や十五カ月ほどに成った。十五カ月とは言っても岸本に取っては随分長い月日であった。過ぐる十五カ月は三年にも四年にも当るように思われた。彼はもう可成《かなり》長い月日の間、故国を見ずに暮したように思った。その間、日頃親しかった人々の誰の顔を見ることも出来ず、誰の声を聞くことも出来ずに暮したように思った。彼は歩きづめに歩いてまで宿屋に辿《たど》り着くことの出来ない旅人のように自分の身を考えた。この仏蘭西《フランス》の田舎《いなか》へは彼は心から多くの希望《のぞみ》をかけて来た。何よりも彼の願いは、たましいを落着けたいと思うことであった。どうやらその願いが叶《かな》いそうにも見えて来た。「君はこんな田舎が好いのか。ここにはブルタアニュの海岸に見つけるほどの野趣も無いではないか。そうかと言って田舎の都会らしい潤いにすらも乏しいではないか。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里《パリ》から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊《き》いたくらいである。それにも拘《かかわ》らずサン・テチエンヌ寺の立つ高い岡の上に登ってあの古い寺院を背後《うしろ》にした眺望《ちょうぼう》の好い遊園の石垣の上から耕作と牧畜との地たるリモオジュの町はずれを眺《なが》めた日から、しみじみ欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》の旅のことが思われた。ヴィエンヌ河はその町はずれを流れていた。仏蘭西の国道に添うて架《か》けてある石橋、騾馬《らば》に引かせて河岸《かし》の並木の間を通る小さな荷馬車なぞが眼の下に見える。彼はその石
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