十二

 壮丁《そうてい》という壮丁は続々国境に向いつつあった。出征する兵士の並木街を通るような光景が既に二日ばかりも続いた。早《はや》独逸軍の斥候《せっこう》が東仏蘭西の境を侵したという報知《しらせ》すら伝わっていた。下宿では主婦《かみさん》も、主婦の姪も食堂の窓のところへ行って、街路《まち》を通る歩兵の一隊を見送ろうとした。岸本が同じ窓に近く行った時は、主婦は彼の方を振向いて、
「岸本さん、争われないものじゃ有りませんか。吾家《うち》に居た若い独逸人の客が、ちゃんと戦争を知っていましたぜ。親の許《ところ》から手紙が来ると大急ぎで巴里を発《た》って行きましたぜ。確かにあの男は独探《どくたん》ですよ」
 と言いながら自分の鼻の側《そば》へ人差指を宛行《あてが》って見せた。さもさもあんな客を泊めたことを口惜しく思うかのように。
「ホラ、この町を毎日のようにうろうろした変な婦人《おんな》が有りましたろう。皆さんで『カロリイン夫人』だなんて綽名《あだな》をつけた婦人が有りましたろう。どうもあの婦人の様子がおかしいおかしいと思いました。あれは偽《うそ》の白痴ですよ。偽の婦人《おんな》ですよ。白粉《おしろい》なんかをいやに塗《つ》けてると思いましたが、今になって考えると、あれは男の顔ですよ」
 と復《ま》た主婦が言って見せた。疑心に駆《か》られたこの仏蘭西の女は自分の下宿の客ばかりでなく、町を徘徊《はいかい》した白痴の婦人までも独探にしてしまった。
 窓の外を通る兵士の群を見送った眼で主婦の姪を見ると、岸本はリモオジュの田舎《いなか》から出て来たこの娘が紅く顔を泣腫《なきはら》しているのに気がついた。彼女の兄も許婚《いいなずけ》にあたる人も共に出征の途に上るであろうと主婦が岸本に言って聞かせた。岸本は自分の部屋へ行った。列をつくって通る召集された市民の群はその窓の外に続いた。いずれも鳥打帽子を冠《かぶ》り、小荷物を提《さ》げ、仏蘭西の国歌を歌って、並木のかげに立つ婦子供《おんなこども》に別離《わかれ》の叫声を掛けては通過ぎた。一切の乗合自動車も軍用のために徴発され、モン・トオロン行の車の響も絶えた。十八歳から四十七歳までの男児は皆この戦争に参加するとのことで、それらの人達を根こそぎ持って行こうとするような大きな潮が流れ去ろうとしていた。
 巴里在留の外国人で立退きたいと思うも
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