ネいことは、名古屋に滞在する義雄兄へ宛《あ》てた書きにくい手紙を書くことであった。彼はその一通を残して置いて独りで船に乗ろうとした。幾度《いくたび》か彼は節子のことを兄に依頼して行くつもりで、紙をひろげて見た。その度に筆を捨てて嘆息してしまった。
 東京の方にあるクック会社の支店からは、岸本が約束して置いて来た仏蘭西船の切符に添えて、船床の番号までも通知して来た。宿屋の二階座敷から廊下のところへ出て見ると、神戸の港の一部が坂になった町の高い位置から望まれた。これから出て行こうとする青い光った海も彼の眼にあった。

        四十六

「名古屋から岸本さんという方が御見えでございます」
 宿屋の女中が岸本のところへ告げに来た。丁度彼はインフルエンザの気味で、神戸を去る前に多少なりとも書いて置いて行きたいと思う自伝の一節も稿を続《つ》げないでいるところであった。義雄兄の来訪と聞いて、急いで彼は寝衣《ねまき》の上に羽織を重ねた。敷いてある床も部屋の隅《すみ》へ押しやった。もしもインフルエンザの気味ででもなかったら、隠しようの無いほど彼の顔色は急に蒼《あお》ざめた。義雄兄は岸本の出発前に名古屋から彼を見に来たのであった。
「弟が外国へ行くというのに、手紙で御別れも酷《ひど》いと思ってね。それに神戸には用事の都合もあったし、一寸《ちょっと》やって来た」
 こうした兄の言葉を聞くまでは岸本は安心しなかった。
「や――時に、引越も無事に済んだ。一軒の家を動かすとなるとなかなか荷物もあるもんだよ。貴様の方からの注意もあったし、まあ大抵の物は郷里の方へ預けることにして、要《い》る物だけを荷造りして送った。俺《おれ》も名古屋から出掛けて行ってね。すっかり郷里の方の家を片付けて来た。『捨様《すてさま》も外国の方へ行かっせるッて――子供を置いて、よくそれでも思切って出掛る気に成らッせいたものだ』なんて、田舎《いなか》の者が言うから、人間はそれくらいの勇気がなけりゃ駄目だッて俺がそう言ってやった」
 義雄は相変らずの元気な調子で話した。次第に岸本の頭は下って行った。彼は兄の言うことを聞きながら自分の掌《てのひら》を眺めていた。
「俺の家でも皆東京へ出ると言うんで、村のものが送別会なぞをしてくれたよ。嘉代《かよ》(節子の母)もね、なんだか気の弱いことを言ってるから、そんなことじゃダチカン
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