tを生《はや》した老人を見つけた。その人が妻の父親であった。老人は岸本の外遊を聞いて、見送りかたがた函館《はこだて》の方から出て来てくれた。園子の姉とか妹とかいう人達までこの老人に托《たく》してそれぞれ餞別《せんべつ》なぞを贈って寄《よこ》してくれたことを考えても、思わず岸本の頭は下った。代々木、加賀町、元園町、その他の友人や日頃仕事の上で懇意にする人達も多くやって来てくれた。岸本はそれから人達の集っている方へも別れを告げに行った。
「この次は君の洋行する番だね」
 と代々木の友人の前に立って話しかける人があった。
「そう皆出掛けなくても可《い》いサ」
 と代々木は笑って、快活な興奮した眼付で周囲に集って来る人達を眺《なが》めていた。
 発車の時が近づいた。つと函館の老人は岸本の側へ寄った。
「私はここで失礼します。そんならまあ御機嫌《ごきげん》よう」
 改札口の柵《さく》の横手で、老人は岸本の方をよく見て言った。他の人と同じように入場券を手にしないところにこの老人の気質を示していた。
 五六人の友人は岸本と一緒に列車の中へ入った。岸本が車窓から顔を出した時は、日頃親しい人達ばかりでなく、彼の著述の一冊も読んで見てくれるような知らない年若な人達までがそこに集まって来ていた。多くの人の中を分けて窓際《まどぎわ》へ岸本を捜しに来た美術学校のある教授もあった。
「仏蘭西《フランス》の方へ御出掛だそうですね――私は御立《おたち》の日もよく知りませんでした。今朝新聞を見て急いでやって来ました」
「ええ、君の御馴染《おなじみ》の国へ行ってまいりますよ」
 岸本はその窓際で、少年時代から知合っている画家とあわただしい別れの言葉を交《かわ》した。
「岸本さん、もうすこし顔をお出しなすって下さい。今写真を撮《と》りますから」
 という声が新聞記者の一団の方から起った。岸本は出したくない顔を余儀なく窓の外へ出した。
「どうぞ、もうすこしお出しなすって下さい。それでは写真がよく写りません」
 パッと光る写真器の光の中に、岸本は恥の多い顔を曝《さら》した。
「泉ちゃん、繁ちゃん――左様なら」
 と岸本が婆やに連れられている二人の子供の顔を見ているうちに、汽車は動き出した。岸本は黙って歩廊に立つ人々の前に頭をさげた。
「大変な見送りだね。こんなに人の来てくれるようなことはわれわれの一生にそう
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