}《あみがさ》のかげから黙って彼に挨拶《あいさつ》した時のことを思出すことが出来る。丁度あの囚人《しゅうじん》の姿こそ自分で自分の鞭《むち》を受けようとする岸本の心には適《ふさ》わしいものであった。眼に見えない編笠。眼に見えない手錠。そして眼に見えない腰繩。実際彼は生きて還《かえ》れるか還れないか分らない遠い島にでも流されて行くような心持で、新橋の停車場の方へ向って行った。
寒い細《こまか》い雨はしとしと降っていた。旧《ふる》い停車場の石階《いしだん》を上ると、見送りに来てくれた人達が早やそこにもここにも集っていた。
「お目出度《めでと》うございます」
とある書店の主人が彼の側へ来て挨拶した。
「今日《こんち》はお目出度うございます」
と大川端《おおかわばた》の方でよく上方唄《かみがたうた》なぞを聞かせてくれた老妓《ろうぎ》が彼の側へ来た。この人は自分より年若な夫の落語家と連立って来て、一緒に挨拶した。
「こりゃ、困ったなあ」
この考えが見送りに来てくれた人達に逢《あ》うと同時に、岸本の胸へ来た。思いがけない人達までが彼の出発を聞き伝えて、順に彼の方へ近づいて来た。
岸本は高輪の方から婆やに連れられて来た子供等に逢った。婆やは改まった顔付で、よそいきの羽織なぞを着て、泉太と繁とを引連れていた。
「お節ちゃんは今日はお留守居でございますッて」と婆やは岸本を見て言った。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、よく来たね」
岸本はかわるがわる二人の子供を抱きかかえた。泉太は眼を円《まる》くして父の周囲《まわり》に集る人々を見廻していたが、やがて首を垂《た》れて涙ぐんだ。その時になってこの兄の方の子供だけは、父が遠いところへ行くことを朦朧《おぼろ》げながらに知ったらしかった。
四十二
田辺の弘は中洲《なかす》の方から、愛子夫婦は根岸の方から、いずれも停車場《ステーション》まで岸本を見送りに来た。弘のよく肥《ふと》った立派な体格は、別れを告げて行く岸本に取って、亡《な》くなった恩人を眼《ま》のあたりに見るの思いをさせた。「叔父さん、今日はお目出度うございます」と愛子の夫も帽子を手にして挨拶《あいさつ》した。この人といい、弘といい、岸本から見るとずっと年の違った人達が皆もう働き盛りの年頃に成っていた。次第に停車場へ集って来る人の中で岸本は白い立派な髯《ひげ
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