ゥれ》の膳《ぜん》に就《つ》いた。食事する部屋の片隅《かたすみ》には以前の住居の方から仏も移して持って来てあって、節子はそこへも叔父の出発の前夜らしく燈明を進《あ》げた。そのかがやきを見ても、二人の子供は何事《なんに》も知らずにいた。食後に岸本は明るい仏壇の前へ子供を連れて行った。
「母さん、左様なら」
 と岸本は子供等に言って見せた。あだかも亡《な》くなった人にまで別れを告げるかのように。
「これが母さん?」
 泉太の方が戯れるように言って、側に居る繁と顔を見合せた。
「そうサ。これがお前達の母さんだよ」
 と岸本が言うと、二人の子供はわざと知らない振《ふり》をして噴飯《ふきだ》してしまった。
 岸本は南向の部屋へ行っていそがしく出発前の準備に取掛った。書くべき手紙の数だけでも多かった。部屋には旅の鞄に詰めるものが一ぱいにひろげてあった。諸方《ほうぼう》から餞別《せんべつ》として贈られた物も、異郷への土産《みやげ》として、出来るだけ岸本は鞄や行李《こうり》の中に納《い》れて行こうとした。
「明日は天気かナ」
 と言いながら、岸本は庭に向いた硝子戸の方へ行って見た。雨戸を開けると、暗い樹木の間を通して、夜の空が彼の眼に映った。遠く光る星もあった。寒さと温暖《あたたか》さとの混合《まじりあ》ったような空気は部屋の内までも流れ込んで来た。
「節ちゃん、春が来るね」
 と岸本は旅支度の手伝いに余念もない節子の方を顧みて言った。節子は電燈のかげで白い襯衣《シャツ》の類なぞを揃《そろ》えていたが、叔父と入替りに雨戸の方へ立って行った。
「今日は鶯《うぐいす》が来て、しきりにこの庭で啼《な》いていましたッけ」
 と彼女は言って見せた。
 遅くまで人通りの多い下町の方から移って来て見ると、浅草代地あたりでまだ宵の口かと思われた頃がその高台の上では深夜のように静かであった。屋外《そと》では音一つしなかった。以前の住居から持って来た古い柱時計の時を刻む音が際立《きわだ》って岸本の耳に聞えた。
「ほんとにこの辺は静かだね。山の中にでも居るようだね」
 こう岸本は節子に話しかけながら、郊外らしい夜の静かさの中で、遠い旅立の支度を急いだ。岸本に取っては、めったに着たことの無い洋服をこれから先、身につけるというだけでも煩《わずら》わしかった。彼は熱帯地方の航海のことなぞを想像して見て、その準
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