フところへ行って立って見た。幾度《いくたび》か既に温暖《あたたか》い雨が通過ぎた後の町々の続いた屋根が彼の眼に映った。噂好《うわさず》きな人達の口に上ることもなしに、ともかくも別れて行くことの出来るその朝が来たのを不思議にさえ思った。
最近に訪《たず》ねて来てくれた恩人の家の弘の言葉が不図《ふと》岸本の胸へ来た。
「菅《すげ》さんの言草が好いじゃ有りませんか。『岸本君は時々人をびっくりさせる。――昔からあの男の癖です』とさ」
これは弘が岸本の外出中に、この家で旧友の菅と落合った時の言葉であった。町に別れを告げるようにして岸本はその二階の戸を閉めた。遠く高輪《たかなわ》の方に見つけた家の方へ、彼は先《ま》ず女子供を送出した。
三十七
新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀《いたべい》とで囲われた平屋造りの家の周囲《まわり》を走り廻っていた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、気をつけるんだよ。お庭の植木の葉なぞを採るんじゃないよ」
岸本は先ずそれを子供に言って聞かせたが、兄弟の幼いものが互いに呼びかわす声を新しい住居の方で聞いたばかりでも、彼には別の心地《こころもち》を起させた。
節子は婆やを相手に引越の日らしく働いているところであった。まだ荷車は着かなかった。
「漸《ようや》く。漸く」
と岸本はさも重荷でも卸したように言って、ざっと掃除の出来た家の内をあちこちと見て廻った。以前の住居に比べると、そこには可成《かなり》間数もあった。岸本は節子に伴われながら、静かな日のあたって来ている北向の部屋を歩いて見た。
「祖母《おばあ》さんでも出ていらしったら、この部屋に居て頂《いただ》くんだね。針仕事でもするには静かで好さそうな部屋だね」
と岸本は節子に言った。丁度その部屋の前には僅《わず》かばかりの空地があって、裏木戸から勝手口の方へ通われるように成っていた。
「叔父さん、持って来た萩《はぎ》を植るには好さそうなところが有りますよ」と言って、節子はその空地の隅《すみ》のあたりを叔父に指《さ》して見せた。
岸本は南向の部屋の方へ行って見た。そこへも節子が随《つ》いて来た。彼女はめずらしく晴々とした顔付で、まだ姿にも動作
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