「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
 お初《はつ》と子供《こども》は、袖子《そでこ》の前《まえ》で、こんな言葉《ことば》をかわしていた。子供《こども》から呼《よ》びかけられるたびに、お初《はつ》は「まあ、可愛《かわい》い」という様子《ようす》をして、同《おな》じことを何度《なんど》も何度《なんど》も繰《く》り返《かえ》した。
「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
「ちゃあちゃん。」
「はあい――金之助《きんのすけ》さん。」
 あまりお初《はつ》の声《こえ》が高《たか》かったので、そこへ袖子《そでこ》の父《とう》さんが笑顔《えがお》を見《み》せた。
「えらい騒《さわ》ぎだなあ。俺《おれ》は自分《じぶん》の部屋《へや》で聞《き》いていたが、まるで、お前達《まえたち》のは掛《か》け合《あ》いじゃないか。」
「旦那《だんな》さん。」とお初《はつ》は自分《じぶん》でもおかしいように笑《わら》って、やがて袖子《そでこ》と金之助《きんのすけ》さんの顔《かお》を見《み》くらべながら、「こんなに金之助《きんのすけ》さんは私《わたし》にばかりついてしまって……袖子《そでこ》さんと金之助《きんのすけ》さんとは、今日《きょう》は喧嘩《けんか》です。」
 この「喧嘩《けんか》」が父《とう》さんを笑《わら》わせた。
 袖子《そでこ》は手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》で、お初《はつ》の側《そば》を離《はな》れないでいる子供《こども》の顔《かお》を見《み》まもった。女《おんな》にもしてみたいほどの色《いろ》の白《しろ》い児《こ》で、優《やさ》しい眉《まゆ》、すこし開《ひら》いた脣《くちびる》、短《みじか》いうぶ毛《げ》のままの髪《かみ》、子供《こども》らしいおでこ――すべて愛《あい》らしかった。何《なん》となく袖子《そでこ》にむかってすねているような無邪気《むじゃき》さは、一層《いっそう》その子供《こども》らしい様子《ようす》を愛《あい》らしく見《み》せた。こんないじらしさは、あの生命《せいめい》のない人形《にんぎょう》にはなかったものだ。
「何《なん》と言《い》っても、金之助《きんのすけ》さんは袖《そで》ちゃんのお人形《にんぎょう》さんだね。」
と言《い》って父《とう》さんは笑《わら》った。
 そういう袖子《そでこ》の父《とう》さんは鰥《やもめ》で、中年《ちゅうねん》で連《つ》れ合《あ》いに死《し》に別《わか》れた人《ひと》にあるように、男《おとこ》の手《て》一つでどうにかこうにか袖子《そでこ》たちを大《おお》きくしてきた。この父《とう》さんは、金之助《きんのすけ》さんを人形扱《にんぎょうあつか》いにする袖子《そでこ》のことを笑《わら》えなかった。なぜかなら、そういう袖子《そでこ》が、実《じつ》は父《とう》さんの人形娘《にんぎょうむすめ》であったからで。父《とう》さんは、袖子《そでこ》のために人形《にんぎょう》までも自分《じぶん》で見立《みた》て、同《おな》じ丸善《まるぜん》の二|階《かい》にあった独逸《ドイツ》出来《でき》の人形《にんぎょう》の中《なか》でも自分《じぶん》の気《き》に入《い》ったようなものを求《もと》めて、それを袖子《そでこ》にあてがった。ちょうど袖子《そでこ》があの人形《にんぎょう》のためにいくつかの小《ちい》さな着物《きもの》を造《つく》って着《き》せたように、父《とう》さんはまた袖子《そでこ》のために自分《じぶん》の好《この》みによったものを選《えら》んで着《き》せていた。
「袖子《そでこ》さんは可哀《かわい》そうです。今《いま》のうちに紅《あか》い派手《はで》なものでも着《き》せなかったら、いつ着《き》せる時《とき》があるんです。」
 こんなことを言《い》って袖子《そでこ》を庇護《かば》うようにする婦人《ふじん》の客《きゃく》なぞがないでもなかったが、しかし父《とう》さんは聞《き》き入《い》れなかった。娘《むすめ》の風俗《なり》はなるべく清楚《せいそ》に。その自分《じぶん》の好《この》みから父《とう》さんは割《わ》り出《だ》して、袖子《そでこ》の着《き》る物《もの》でも、持《も》ち物《もの》でも、すべて自分《じぶん》で見立《みた》ててやった。そして、いつまでも自分《じぶん》の人形娘《にんぎょうむすめ》にしておきたかった。いつまでも子供《こども》で、自分《じぶん》の言《い》うなりに、自由《じゆう》になるもののように……
 ある朝《あさ》、お初《はつ》は台所《だいどころ》の流《なが》しもとに働《はたら》いていた。そこへ袖子《そでこ》が来《き》て立《た》った。袖子《そでこ》は敷布《しきふ》をかかえたまま物《もの》も言《い》わないで、蒼《あお》ざめた顔《かお》をしていた。
「袖子《そでこ
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