を抱《だ》いて来《き》て、自分《じぶん》の部屋《へや》で遊《あそ》ばせるようになった。数《かぞ》え歳《どし》の二つにしかならない男《おとこ》の児《こ》であるが、あのきかない気《き》の光子《みつこ》さんに比《くら》べたら、これはまた何《なん》というおとなしいものだろう。金之助《きんのすけ》さんという名前《なまえ》からして男《おとこ》の子《こ》らしく、下《しも》ぶくれのしたその顔《かお》に笑《え》みの浮《う》かぶ時《とき》は、小《ちい》さな靨《えくぼ》があらわれて、愛《あい》らしかった。それに、この子《こ》の好《よ》いことには、袖子《そでこ》の言《い》うなりになった。どうしてあの少《すこ》しもじっとしていないで、どうかすると袖子《そでこ》の手《て》におえないことが多《おお》かった光子《みつこ》さんを遊《あそ》ばせるとは大違《おおちが》いだ。袖子《そでこ》は人形《にんぎょう》を抱《だ》くように金之助《きんのすけ》さんを抱《だ》いて、どこへでも好《す》きなところへ連《つ》れて行《ゆ》くことが出来《でき》た。自分《じぶん》の側《そば》に置《お》いて遊《あそ》ばせたければ、それも出来《でき》た。
 この金之助《きんのすけ》さんは正月生《しょうがつう》まれの二つでも、まだいくらも人《ひと》の言葉《ことば》を知《し》らない。蕾《つぼみ》のようなその脣《くちびる》からは「うまうま」ぐらいしか泄《も》れて来《こ》ない。母親《ははおや》以外《いがい》の親《した》しいものを呼《よ》ぶにも、「ちゃあちゃん」としかまだ言《い》い得《え》なかった。こんな幼《おさな》い子供《こども》が袖子《そでこ》の家《いえ》へ連《つ》れられて来《き》てみると、袖子《そでこ》の父《とう》さんがいる、二人《ふたり》ある兄《にい》さん達《たち》もいる、しかし金之助《きんのすけ》さんはそういう人達《ひとたち》までも「ちゃあちゃん」と言《い》って呼《よ》ぶわけではなかった。やはりこの幼《おさな》い子供《こども》の呼《よ》びかける言葉《ことば》は親《した》しいものに限《かぎ》られていた。もともと金之助《きんのすけ》さんを袖子《そでこ》の家《いえ》へ、初《はじ》めて抱《だ》いて来《き》て見《み》せたのは下女《げじょ》のお初《はつ》で、お初《はつ》の子煩悩《こぼんのう》ときたら、袖子《そでこ》に劣《おと》らなかった。
「ちゃあちゃん。」
 それが茶《ちゃ》の間《ま》へ袖子《そでこ》を探《さが》しに行《ゆ》く時《とき》の子供《こども》の声《こえ》だ。
「ちゃあちゃん。」
 それがまた台所《だいどころ》で働《はたら》いているお初《はつ》を探《さが》す時《とき》の子供《こども》の声《こえ》でもあるのだ。金之助《きんのすけ》さんは、まだよちよちしたおぼつかない足許《あしもと》で、茶《ちゃ》の間《ま》と台所《だいどころ》の間《あいだ》を往《い》ったり来《き》たりして、袖子《そでこ》やお初《はつ》の肩《かた》につかまったり、二人《ふたり》の裾《すそ》にまといついたりして戯《たわむ》れた。
 三|月《がつ》の雪《ゆき》が綿《わた》のように町《まち》へ来《き》て、一晩《ひとばん》のうちに見事《みごと》に溶《と》けてゆく頃《ころ》には、袖子《そでこ》の家《いえ》ではもう光子《みつこ》さんを呼《よ》ぶ声《こえ》が起《お》こらなかった。それが「金之助《きんのすけ》さん、金之助《きんのすけ》さん」に変《か》わった。
「袖子《そでこ》さん、どうしてお遊《あそ》びにならないんですか。わたしをお忘《わす》れになったんですか。」
 近所《きんじょ》の家《いえ》の二|階《かい》の窓《まど》から、光子《みつこ》さんの声《こえ》が聞《き》こえていた。そのませた、小娘《こむすめ》らしい声《こえ》は、春先《はるさき》の町《まち》の空気《くうき》に高《たか》く響《ひび》けて聞《き》こえていた。ちょうど袖子《そでこ》はある高等女学校《こうとうじょがっこう》への受験《じゅけん》の準備《じゅんび》にいそがしい頃《ころ》で、遅《おそ》くなって今《いま》までの学校《がっこう》から帰《かえ》って来《き》た時《とき》に、その光子《みつこ》さんの声《こえ》を聞《き》いた。彼女《かのじょ》は別《べつ》に悪《わる》い顔《かお》もせず、ただそれを聞《き》き流《なが》したままで家《いえ》へ戻《もど》ってみると、茶《ちゃ》の間《ま》の障子《しょうじ》のわきにはお初《はつ》が針仕事《はりしごと》しながら金之助《きんのすけ》さんを遊《あそ》ばせていた。
 どうしたはずみからか、その日《ひ》、袖子《そでこ》は金之助《きんのすけ》さんを怒《おこ》らしてしまった。子供《こども》は袖子《そでこ》の方《ほう》へ来《こ》ないで、お初《はつ》の方《ほう》へばかり行《い》った
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