食堂
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伜《せがれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|子息《むすこ》
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 お三輪が東京の方にいる伜《せがれ》の新七からの便りを受取って、浦和の町からちょっと上京しようと思い立つ頃は、震災後満一年にあたる九月一日がまためぐって来た頃であった。お三輪に、彼女が娵《よめ》のお富に、二人の孫に、子守娘に、この家族は震災の当時東京から焼出されて、浦和まで落ちのびて来たものばかりであった。
 何となく秋めいた空の色も、最早《もはや》九月のはじめらしい。風も死んだ日で、丁度一年前と同じような暑い日あたりが、またお三輪の眼の前に帰って来た。彼女は娵や孫達と集っていて、一緒に正午《ひる》近い時を送った。
「おばあちゃん、地震?」
 と誰かの口真似《くちまね》のように言って、お三輪の側へ来るのは年上の方の孫だ。五つばかりになる男の児だ。
「坊やは何を言うんだねえ」
 とお三輪は打ち消すように言って、お富と顔を見合せた。過ぐる東京での震災の日には、打ち続く揺り返し、揺り返しで、その度に互いに眼の色を変えたことが、言わず語らずの間に二人の胸を通り過ぎた。お富は無心な子供の顔をみまもりながら、
「お母さん、御覧なさい、この児はもうあの地震を覚えていないようですよ」
 とお三輪に言って見せた。
 そこはお三輪に取って彼女が両親の生れ故郷にあたる。そこには旧《ふる》い親戚の家もある。そこの古い寺の墓地には、親達の遺骨も分けて納めてある。埼玉気分をそそるような機場《はたば》の機の音も聞えて来ている。お三輪はほんの一時《いっとき》落ちつくつもりで伜の新七が借りてくれた家に最早一年も暮して来た。彼女は、お富や孫達を相手に、東京の方から来る好い便りを待ち暮した。
 一年前の大きな出来事を想い起させるような同じ日の同じ時刻も、どうやら、無事に過ぎた。一しきりの沈黙の時が過ぎて、各自《めいめい》の無事を思う心がそれに変った。日頃台所にいて庖丁に親しむことの好きなお三輪は、こういう日にこそ伜や親戚を集め、自分の手作りにしたもので一緒に記念の食事でもしたいと思ったが、それも叶《かな》わなかった。親戚も多く散り散りばらばらだ。お三輪と同じように焼出された親戚の中には、東京の牛込へ、四谷へ、あるいは日暮里へと、落ちつく先を尋ね惑い、一年のうちに七度も引越して歩いて、その頃になってもまだ住居の定まらない人達すらあった。
 お三輪は思い出したように、仮の仏壇のところへ線香をあげに行った。お三輪が両親の古い位牌《いはい》すら焼いてしまって、仏壇らしい仏壇もない。何もかもまだ仮の住居の光景だ。部屋の内には、ある懇意なところから震災見舞にと贈られた屏風《びょうぶ》などを立て廻して、僅《わず》かにそこいらを取り繕ってある。長いことお三輪が大切にしていた黒柿《くろがき》の長手《ながて》の火鉢も、父の形見として残っていた古い箪笥《たんす》もない。お三輪はその火鉢を前に、その箪笥を背後《うしろ》にして、どうかしてもう一度以前のような落ちついた心持に帰って見たいと願っていた。
 このお三輪が震災に逢った頃は最早六十の上を三つも四つも越していた。父は浦和から出て、東京京橋の目貫《めぬき》な町中に小竹の店を打ち建てた人で、お三輪はその家附きの娘、彼女の旦那は婿養子にあたっていた。この二人の間に生れた一人|子息《むすこ》が今の新七だ。お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾《とっ》くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海《シャンハイ》の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。
 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮していた日のことをまだ忘れかねている。広い板敷の台所があって、店のものに食わせる昼飯の支度《したく》がしかけてある。番頭や小僧の茶碗《ちゃわん》、箸《はし》なぞも食卓の上に既に置き並べてある。そこは小竹とした暖簾《のれん》のかかっていた店の奥だ。お三輪は女中を相手に、その台所で働いていた。そこへ地震だ。やがて火だ。当時を想うと、新七はじめ、店の奉公人でも、近所の人達でも、自分等の町の界隈《かいわい》が焼けようなぞと思うものは一人もなかったのである。あの時ほどお三輪も自分の弱いことを知ったためしはなかった。新七でも側にいなかったら、どうなったかと思われるくらいだ。彼女はお富達と手をつなぎ合せ、一旦日比谷公園まで逃れようとしたが、火を見ると足も前へ進まなかった。眼は眩《くら》み、年老いたからだは震えた。そしてあの暗い樹のかげで一夜を明そうとした頃は、小竹の店も焼け落ちてしまった。芝公園の方にある休茶屋が、ともかくも一時この人達の避難する場所にあてられた。その休茶屋には、以前お三輪のところに七年も奉公したことのあるお力が内儀《かみ》さんとしていて、漸《ようや》くのことでそこまで辿《たど》り着いた旧主人を迎えてくれた。こんな非常時の縁が、新七とお力夫妻とを結びつけ、震災後はその休茶屋に新しい食堂を設け、所謂《いわゆる》割烹《かっぽう》店でなしに好い料理を食わせるところを造り、協力でそれを経営するようになって行こうとは、お三輪としても全く思い設けない激しい生涯の変化であった。
「お前はどうしてそんなに泣くの」
 とお三輪は自分の側へ来る子守娘に声を掛けて見た。
「去年のことでも思い出したのかい」
 とまたお三輪が言うと子守娘はそれを聞いて、一層しくしく泣いた。この娘は、焼けない前から小竹の家に奉公していたもので、東京にある身内という身内は一人も大火後に生き残らなかった。全く独《ひと》りぼっちになってしまったような娘だ。お三輪について一緒に浦和まで落ちのびて来たものは、この不幸な子守娘だけであった。多勢使っていた店の奉公人もそれぞれ暇を取って、皆ちりぢりばらばらになってしまった。
 お三輪は子守娘をつれて町へでも買物に行く度に、秩父の山々を望んで来た。山を見ると、彼女は東京の方の空を恋しく思った。


 新七から来た手紙には浦和まで母を迎えに行くとあって、ともかくもお三輪は伜の来るのを待つことにしていた。彼女は何を置いても、新七の言葉に従わねばならないように思った。それをしなければ気が済まないように思った。折角伜がそう言ってよこして、新しく開業した食堂を母に見せたいと言うのだから。
 お三輪は震災後の東京を全く知らないでもない。一度、新七に連れられて焼跡を見に上京したこともある。小竹とした暖簾の掛っていたところは仮の板囲いに変って、ただ礎《いしずえ》ばかりがそこに残っていた。香、扇子、筆墨、陶器、いろいろな種類の紙、画帖、書籍などから、加工した宝石のようなものまで、すべて支那産の品物が取りそろえてあったあの店はもう無い。三代もかかって築きあげた一家の繁昌《はんじょう》もまことに夢の跡のようであった。その時はお三輪も胸が迫って来て、二度とこんな焼跡なぞを訪ねまいと思った。その足でお三輪は芝公園の休茶屋の方へも寄って来たが、あの食堂もまだ開業の支度最中であった。新七、お力夫婦の外に、広瀬さんという人も加わって、四人で食器諸道具の相談に余念もなかった頃だ。この広瀬さんは一時は小竹の家に身を寄せていたこともあり、お力なぞもこの人に就《つ》いて料理というものに眼が開いたくらいだから、そういう人が心棒になっての食堂なら、あるいは成り立ちもするかとお三輪にも思われた。
「それにしても、小竹の店はどうなるだろう。新七はどういう気でいるんだろう」
 そこまで考えて行くと、お三輪は茫然《ぼうぜん》としてしまった。
 単調な機場《はたば》の機の音は毎日のようにお三輪の針仕事する部屋まで聞えて来ていた。お三輪はその音を聞きながら、東京の方にいる新七のために着物を縫った。亡くなった母のことが頻《しき》りに恋しく思い出されるのも、そういう時だ。お三輪はあの母の晩年に言ったこと為《し》たことなぞをいろいろと思い出すようになったほど、自分も同じように年をとったかと思った。母はなかなかきかない気象の婦人であったから、存命中は婿養子との折合も好くなく、とかく家庭に風波の絶間もなかったが、それだけ一方にはしゃんとしたところを持っていた。お三輪が娘時分に朝寝の枕もとへ来て、一声で床を離れなかったら、さっさと蒲団《ふとん》を片付けてしまわれるほど厳《きび》しい育て方をされたのも母だ。そういう母が同じ浦和生れの父を助けて小竹の店を持つ前に、しばらく日本橋|石町《こくちょう》の御隠居さんの家に勤めていた頃は、朝も暗いうちに起き、夜が明けてから髪なぞを結ったためしは殆《ほと》んどなかったという。そして御隠居さんの寝間の障子を細目にあけ、敷居のところに手をついて、毎朝の御機嫌《ごきげん》を伺ったものだという。年若い頃のお三輪に、三年の茶の道と、三味線や踊りの芸を仕込んでくれたのも母だ。財産も、店の品物も、着物も、道具も――一切のものを失った今となって見ると、年老いたお三輪が自分の心を支える唯一つの柱と頼むものは、あの生みの母より外になかった。
 生きている人にでも相談するように、お三輪はこの母の前に自分を持って行って見た。母は年を取れば取るほど、ますます疑い深くなって行ったような人であった。仮りに母がこの世に生きながらえていて、一回の震災の打撃に小竹の店の再興も覚束《おぼつか》ないと聞いたなら、あの疑い深い人はまた何を言い出したかも知れない。三代と続く商家も少いとよく言われるように、今度の震災を待つまでもなく、旧いものの壊《こわ》れる日が既に来ていたろうかとは、母のような人でなければ疑えない事であった。先代を助けて店をあれまでにした母として見たら、新しい食堂なぞに新七の手を出すことは好まないと言うかも知れない。しかし、お三輪はどこまでも新七を信じようとした。
 母はまた、年をとるほど好き嫌《きら》いも激しかった。そのためにお三輪の旦那とは合わないで、幼少《ちいさ》な時分の新七をひどく贔屓《ひいき》にした。母はどれ程あの児を可愛がったものとも知れなかった。この好き嫌いの激しい母が今のお富と一緒に暮しているとしたら、そこにも風波は絶えなかったかも知れないが、しかしお三輪は唯の一度もお富と争った事がない。「そうかい、そうかい」と言って何事も娵《よめ》に従って来た。いたずら盛りの孫が障子を破ろうと、お三輪はそれを叱ったこともない。自分で糊《のり》と紙を持って行って、何度でも子供の破った障子を繕ってやった。それほど孫にまで逆らうまいとして来た。母の思惑《おもわく》もさることながら、お三輪は自分で台所に出て皆のために働くことを何よりの楽みに思い、夜も遅くまで皆のために着物を縫い、時には娵や子守娘まで自分の側に坐らせて、昔をしのぶ端唄《はうた》の一つも歌って聞かせながら、田舎《いなか》住居のつれづれを慰めようとしたこともある。
「お三輪、お前はそれでいい。死ぬまで皆のために働いて、自分に出来るだけのことをするがいい」
 そういう母の声を耳の底に聞きつけるまでは、お三輪は安心しなかった。
「おばあちゃん、東京へ行くの」
 この孫の問に驚かされて、お三輪は我に返った。娵と二人ぎりになると、出ない日のない東京の方の噂《うわさ》が、いつの間にか子供の耳に入っているのにも、びっくりした。
「ああ、坊やはおとなしくお留守居しているんだよ」
 と事もなげに言って見せた。
 焼けない前の小竹の奥座敷を思出しながら今の部屋を見ると、江戸好みの涼しそうな団扇《うちわ》一本お三輪の眼には見当らなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜しい着物のことなぞがつぎつぎにお三輪の胸に浮んで来る。彼女はまたよくそれを覚えていて、新七のにするつもりでわざわざ西京まで染めにやった羽織の裏の模様や、一度も手を通さず仕舞に焼いてしまったお富の長襦袢《ながじゅばん》の袖までも、ありありと眼に見ることが出
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