来た。もう一度東京へ――娘時分からの記憶のある東京へ――その考えは一日も彼女から離れなかった。それなしには落ちついて坐った気にもなれない黒柿の長手の火鉢も、古い馴染《なじみ》の箪笥も、あの都会の方には彼女を待っているように思われた。
孫達は、と見ると、子供らしい腰につけた巾着《きんちゃく》の鈴の音をさせながら、子守娘を相手にお三輪の周囲《まわり》に遊び戯れていた。彼女は半分|独《ひと》りごとのように、
「あの秩父のお山のずっと向うの方が、東京だよ。ずっと、ずっと向うの方だよ。東京は遠いねえ」
やがて新七もいそがしい中に僅かの暇を見つけ、一晩泊りがけで浦和まで母を迎えにやって来てくれた。その翌日は食堂の定休日にあたるというので、お三輪もやや安心して、東京の方へ向う支度をした。彼女はすこし背をこごめ、女のたしなみを失わない程度で片足ずつそこへ出しながら、白い新しい足袋をはこうとした。その鞐《こはぜ》を掛ける時に、昔は紐《ひも》のついた足袋《たび》のあったことを思い出した。その足袋の紐を結んで、水天宮さまのお参りにでもなんでも出掛けたことを思い出した。そんな旧いことが妙に彼女の胸へ来た。出がけに、彼女は仮の仏壇のところへ行って、
「お母さん、行ってまいります」
と告げて行くことを忘れなかった。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
とそこへ来て言って、一緒に東京へ行きたがるのは年上の方の孫だ。お三輪はそれをどうすることも出来なかった。
「坊やも連れて行かれないかねえ」
とお三輪が言うと、新七は首を振って、
「どうして、まだそんな時じゃありませんよ」
と母にもお富にも言って見せた。
間もなくお三輪は新七に連れられて出掛けた。彼女も年をとって、誰か連れなしに独りで汽車にも乗れなかった。震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺《ぶ》きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。
東京まで出て行って見ると、震災の名残《なごり》はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾《よしず》で囲った休茶屋の横手には、人目をひくような新しい食堂らしい旗も出ている。それには、池に近い位置に因《ちな》んで「池の茶屋」とした文字もあらわしてある。お力夫妻はそこにお三輪や新七を待ちうけていた。
「御隠居さんがいらしった」
という声がお三輪の耳に入った。お力だ。そういうお力は旧主人を迎え顔に、誰よりも先にそこへ飛んで出て来た。
入口には休日とした札の掛けてある日で、お三輪も皆のいそがしくないところへ着いた。彼女は新七の側に立ちながら、広瀬さんにも逢い、お力の亭主の金太郎にも逢った。その休茶屋は、日除《ひよけ》を軒の高さに張出してあるところから腰掛台なぞを置いてあるところまで、見附きこそ元のかたちとあまり変りはなかったが、内へ入って見ると、この前に一度お三輪が上京した時とは殆んど別の場所のようになっていた。
「これが料理場かい」
とお三輪は新七に言って、何もかも新規なその窓ぎわのところに腰掛けながら休んだ。
「お母さんには食堂の方で休んで頂いたら」
広瀬さんは新七の方を見て、親しい友達のような口をきいた。
「どれ、一つおめにかけますかな」と新七もわざと改まったような調子で、「どうして、これまでにするのはなかなか容易じゃなかった」
この新七や広瀬さんに案内されて、やがてお三輪も食堂の方へ行って見た。窓が二つあって、一方は公園の通路に添い、一方は深い木の葉に掩《おお》われている。その窓際《まどぎわ》には一段と高い床が造りつけてあって、そこに支那風の毛氈《もうせん》なぞも敷きつめてある。部屋の装飾はすべて広瀬さんの好みらしく、せいぜい五組か六組ほどの客しか迎えられない狭い食堂ではあるが、食卓の置き方からして気持好く出来ていた。
「どうです、この食堂は」と新七は母に言った。「外からの見つきは、あまり好くもありませんが、内部《なか》へ入って見ると違いましょう」
「まあ、俄普請《にわかぶしん》としては、こんなものです」と広瀬さんも食堂の内を歩き廻りながら、「お母さんも御承知の通り、今は寄席《よせ》も焼け、芝居も焼けでしょう。娯楽という娯楽の機関は何もない時です。食物より外に誰も楽みがない。そこでこんな食堂の仕事ならば、まあ成り立つというものです。われわれの方から言いましても、こうしてお互いに焼出されてしまって、何か食う道を考えなけりゃなりません。この仕事なら、皆のものが食って行かれる――」
「食って行かれるは好かった」と新七も笑い出した。
静かな光線が射して来ている窓際を選んで、お三輪はある食卓の側に腰掛けた。彼女は料理場の方から茶を運んで来る給仕娘にも挨拶《あいさつ》した。お力もそこへやって来て、新たに雇い入れたその給仕娘の外に、今は「先生」の下で働いている料理の見習人が四五人もある、とお三輪に話し聞かせた。
お力のいう「先生」とは広瀬さんのことだ。その広瀬さんはお三輪の側へ椅子を引寄せながら、
「なにしろ、この震災の後ですから、食器もまだ思うようなのが手に入りません。これで器《うつわ》が好いと、同じものでもお客さんがうまく味って下さる。今はそれが利きません。そこへ出すものは、何でも正味の料理だけなんですからね。料理人は骨が折れますよ」
「きまったお客さんはおもに京橋時代からの店のお得意です」と新七も母に言って見せた。
「時節が時節ですから、皆さんの来易いようにして、安く召上って頂く。定食が三円、それ以上はお望み次第ということにしています。そりゃ店のお得意とは限っていません、どなたにでも自由に来て頂いています。近いところなら仕出しもしています」
「しかし、お客さんと言いましても、われわれの作ったものを味って下さる方は少いものですね」と言って、広瀬さんは新七と顔を見合せた。「お母さんのように素人《しろうと》でも料理の解る方があるかと思うと、私も張合がある。今日はまあ休日で仕方がないとしても、明日は一つ腕を振いますかナ。久しぶりで何かうまいものをお母さんに御馳走《ごちそう》しますかナ」
お三輪は椅子を離れて、木彫《きぼり》の扁額《がく》の掛けてある下へも行って見た。新七に言わせると、その額も広瀬さんがこの池の茶屋のために自分で書き自分で彫ったものであった。お三輪はまた、めずらしい酒の瓶《びん》が色彩《いろどり》として置いてあるような飾棚《かざりだな》の前へも行って見た。そこにも広瀬さんの心はよく働いていた。食堂の片隅《かたすみ》には植木鉢も置いてあって、青々とした蘭の葉が室内の空気に息づいているように見える。どことなく支那趣味の取り入れてあるところは、お三輪に取って、焼けない前の小竹の店を想い起させるようなものばかりであった。
その日は、お三輪はお力に案内されて料理場の内をもあちこちと見て廻った。お三輪もすこし疲れを覚えたが、お力夫婦がいろいろと取持ってくれるので、休ませて欲しいとは言い出せなかった。
「御隠居さん、お坐りになってはいかがです」
とお力が気をきかせると、早速金太郎は休茶屋の横手へ腰掛台を持ち出して、蓮池の望まれるところに席を造ってくれた。お力はお力で、座蒲団や煙草盆《たばこぼん》なぞをそこへ運んで来た。
「御隠居さんの前ですが、この食堂は当りましたよ」と金太郎は力を入れて言った。「そりゃ日比谷辺へ行って御覧になると分りますが、震災このかた食物屋の出来ましたこと。何々食堂としたようなのが、雨降揚句の筍《たけのこ》のように増えて来ています。しかし、そんな食堂とは食堂がちがいますよ――旦那も、先生も、これには大骨折りでした」
「こんなところに、こんな好い食堂があるかって、皆さんがよくそう仰《おっしゃ》って下さいますよ」とお力も言葉を添えた。
「これも、しょっちゅう御隠居さんのお噂《うわさ》ばかり」と金太郎はちょっとお力の方を見て、「この九月一日には、私共も集りまして、旦那に、先生に、それから私共夫婦と、四人で記念にビイルなぞを抜きました」
「大方そんなことだろうッて、浦和でもお噂していましたよ」とお三輪が言った。
「それがです、御隠居さん、旦那に祝って頂いたんじゃ私共が済みません。あんなにお力のやつもお世話さまになって置いて、七年もお店に御奉公させて置いて頂いて――その旦那がお酌しようと言って下さるじゃありませんか。オッと、それはいけません、今日は是非とも私に奢《おご》らせて下さいと言って、それから旦那や先生と御一緒にビイルを祝いました」
「震災の時のことを忘れませんよ」
「それを御隠居さんに言って頂くと、私もうれしい」とお力は話を引取って、「あの時は、私共も届きませんでしたけれど……」
「あれから、お前さん、浦和へ着くまでがなかなか大変でしたよ」とお三輪も思わず焼出された当時の心持を引出された。「平常《ふだん》なら一時間足らずで行かれるところなんでしょう、それを六時間も七時間もかかって……途中で渡れるか渡れないか知れないような橋を渡って……浦和へ着いた頃は、もう真暗サ。あの時は新七が宿屋を探してくれてね。その宿屋でお結飯《むすび》を造ってくれたとお思い……子供がそのお結飯を見たら、手につかんで離さないじゃないか。みんな泣いちまいましたよ……」
広瀬さんがそこへお三輪を見に来た。金太郎は広瀬さんの顔を見ると、
「今、御隠居さんからお話を伺ってるところです。そう言えば、あの震災の時は先生だっても、面白い服装《なり》をして私共へ尋ねて来て下すったじゃありませんか。ほら、太い青竹なぞを杖《つえ》について……」
「そこから、君、この食堂が生れて来たようなものだよ」
と言って見せて広瀬さんも笑った。
「でも、御隠居さんが今度出て来て下すって、ほんとに私はうれしい」とお力は半分独りごとのように、「私のようなもののところへも、御恩返しをする日が来たような気もしますよ。何年となく私はこんな日の来るのを待っていたようなものですよ」
その日はこんな話が尽きなかった。
久しぶりでお三輪の出て来て見た東京は何となく勝手の違うようなところで、見るもの聞くものが彼女の心を落ちつかせなかった。ここに比べると、浦和の町の方は静かな田舎《いなか》という感じが深い。着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体《からだ》を休めようとしたが、生憎《あいにく》と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。
朝になって見ると、広瀬さんは早く魚河岸《うおがし》の方へ出掛けて行く。前の日に見えなかった料理方の人達も帰って来ていて、それぞれ一日の支度を始める。新七もじっとしていなかった。休茶屋の軒先には花やかな提灯《ちょうちん》などを掛け連ねさせ、食堂の旗を出す指図までして廻った。彼はまた、お三輪の見ている前で、食堂の内にある食卓の上までも拭《ふ》いた。
そこへお力が顔を出した。
「旦那さんはそんなことまでなさらなくてもようござんす。手はいくらもあります。旦那さんは帳場の前に腰掛けていて下さればいい方です」
とお力は言って、新七の手から布巾《ふきん》を奪い取るようにした。
魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場の光景も一層の賑《にぎや》かさを増した。料理方の人達はいずれも白い割烹着に手を通して威勢よく働き始めた。そこにはイキの好い魚を洗うものがある。ここには芋の皮をむき始めるものがある。広瀬さんは背広に長い護謨靴《ゴムぐつ》ばきでその間を歩き廻った。素人《しろうと》ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今|陸《おか》へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋
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