の帰りがけに、以前の小竹の店へも訪ねて来たことがある。その頃はお三輪の母親もまだ達者、彼女とても女のさかりの年頃であったから、何の気なしにこの訪問者を迎えて、皆で諸国行脚の話なぞを聞いた。彼女の眼に映る住職は眉毛《まゆげ》の長く白い人ではあったが、そんな長途の行脚に疲れて来た様子はすこしも見えなかったことを覚えている。
何年となく思い出したことのないこの旅の老僧がお三輪の胸に浮んだ。彼女も年をとって見て、不思議と他人の心を読んだ。あれはただの訪問でもなくて、この世の暇乞《いとまご》いであったのだと気がついた。
お三輪は驚きもし、悲みもした。彼女自身が今は同じように、それとなく親しい人達への別れを告げて行こうとしていたからである。明日もあらば――また東京を見に来る日もあらば――そんな考えが激しく彼女の胸の中を往来するようになった。彼女は自分の長い滞在がこの食堂で働く人達のさまたげになろうかと考え、上京して見て反って浦和へとこころざすようになった。彼女は親に従い、子に従い、孫にまで従って来たように、どんな運命にも逆おうとはしなかった。
「新七、お前さんは築地まであたしを送っておくれ。今
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