行かれるは好かった」と新七も笑い出した。
 静かな光線が射して来ている窓際を選んで、お三輪はある食卓の側に腰掛けた。彼女は料理場の方から茶を運んで来る給仕娘にも挨拶《あいさつ》した。お力もそこへやって来て、新たに雇い入れたその給仕娘の外に、今は「先生」の下で働いている料理の見習人が四五人もある、とお三輪に話し聞かせた。
 お力のいう「先生」とは広瀬さんのことだ。その広瀬さんはお三輪の側へ椅子を引寄せながら、
「なにしろ、この震災の後ですから、食器もまだ思うようなのが手に入りません。これで器《うつわ》が好いと、同じものでもお客さんがうまく味って下さる。今はそれが利きません。そこへ出すものは、何でも正味の料理だけなんですからね。料理人は骨が折れますよ」
「きまったお客さんはおもに京橋時代からの店のお得意です」と新七も母に言って見せた。
「時節が時節ですから、皆さんの来易いようにして、安く召上って頂く。定食が三円、それ以上はお望み次第ということにしています。そりゃ店のお得意とは限っていません、どなたにでも自由に来て頂いています。近いところなら仕出しもしています」
「しかし、お客さんと言いまし
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