れたようなその格子戸に取りすがって眺めた。
「あ、これはお閻魔《えんま》さまだ」
 この考えが、古い都会の残った香《におい》でも嗅《か》ぐ思いを起させた。古い東京のものでありさえすれば、何でもお三輪にはなつかしかった。藍万《あいまん》とか、玉つむぎとか、そんな昔|流行《はや》った着物の小切れの残りを見てもなつかしかった。木造であったものが石造に変った震災前の日本橋ですら、彼女には日本橋のような気もしなかったくらいだ。矢張、江戸風な橋の欄干の上に青銅《からかね》の擬宝珠《ぎぼし》があり、古い魚河岸があり、桟橋があり、近くに鰹節《かつおぶし》問屋、蒲鉾《かまぼこ》屋などが軒を並べていて、九月はじめのことであって見れば秋鯖《あきさば》なぞをかついだ肴屋《さかなや》がそのごちゃごちゃとした町中を往ったり来たりしているようなところでなければ、ほんとうの日本橋のような気もしなかったのである。そして、そういう娘時代の記憶の残った東京がまだ変らずにあるようにも思われた。あの魚河岸ですら最早東京の真中にはなくて、広瀬さんはじめ池の茶屋の人達が月島の方へ毎朝の魚の買出しに出掛けるとは、お三輪には信じられもしなかった。
 閻魔堂の前から、新七達の働いている食堂の横手がよく見える。近くにはアカシヤのわくら葉が静かに落ちている。お三輪はその黄色い葉の落ち散ったところをあちこちと歩いて見て、独りで物言わぬさびしさを耐《こら》えた。


 その晩もお三輪は旅人のような思いで、お力の敷いてくれた床に就《つ》いた。浦和の方でよく耳についた蟋蟀《こおろぎ》が、そこでもしきりに鳴いた。お三輪はそれを聴きながら、その公園に連なり続く焼跡の方のことを思いながら寝た。
 翌朝になると、二度と小竹の店を見る日は来ないかのような、その譬《たと》えようもないお三輪のさびしさが、思いがけない心持に変って行った。ふと、お三輪は浦和の古い寺の方に長く勤めた住職のあったことを思い出した。その住職は多年諸国の行脚《あんぎゃ》を思い立ちながら、寺の後継者《あとつぎ》の成長する日まで待ち、破れた本堂の屋根の修繕を終る日まで待ちするうちに、だんだん年をとってしまって、いよいよ行脚に出掛ける頃は既に七十の歳であったという。昼は昼食、夜は一泊、行くさきざきの縁故のある寺でそれを願って行って、西は遠く長崎の果までも旅したという。その足での帰りがけに、以前の小竹の店へも訪ねて来たことがある。その頃はお三輪の母親もまだ達者、彼女とても女のさかりの年頃であったから、何の気なしにこの訪問者を迎えて、皆で諸国行脚の話なぞを聞いた。彼女の眼に映る住職は眉毛《まゆげ》の長く白い人ではあったが、そんな長途の行脚に疲れて来た様子はすこしも見えなかったことを覚えている。
 何年となく思い出したことのないこの旅の老僧がお三輪の胸に浮んだ。彼女も年をとって見て、不思議と他人の心を読んだ。あれはただの訪問でもなくて、この世の暇乞《いとまご》いであったのだと気がついた。
 お三輪は驚きもし、悲みもした。彼女自身が今は同じように、それとなく親しい人達への別れを告げて行こうとしていたからである。明日もあらば――また東京を見に来る日もあらば――そんな考えが激しく彼女の胸の中を往来するようになった。彼女は自分の長い滞在がこの食堂で働く人達のさまたげになろうかと考え、上京して見て反って浦和へとこころざすようになった。彼女は親に従い、子に従い、孫にまで従って来たように、どんな運命にも逆おうとはしなかった。
「新七、お前さんは築地まであたしを送っておくれ。今度出て来たついでに、従妹《いとこ》のところへも寄って行きたいから」
「お母さん、そうしますか」
 料理場から食堂への通い口に設けてある帳場のところに立って、お三輪は新七とこんな言葉をかわした。帳場のテエブルの上には、前の晩に客へ出したらしい料理の献立なぞも載せてある。雅致のある支那風な桃色の用箋《ようせん》にそれが認《したた》めてある。そんな親切なやりかたがこの池の茶屋へ客の足を向けさせるらしい。お三輪はそこにも広瀬さんや新七の心の働いていることを思った。
「浦和へはあの従妹《いとこ》に送って貰いましょう。お前さんもいそがしそうだから、あたしはもうお暇する」


「お力」
 お三輪は料理場の外へお力を呼んで、帯の間から紙の包を取出した。
「これはすこしばかりだが、料理方の人達に分けておくれ。あのお給仕に出る娘さんにもあげておくれ」
 と言って、お三輪は自分の小遣《こづかい》のうちを手土産がわりに置いて行こうとした。彼女はいくらも小遣を持っていなかったが、そういう時になると多勢奉公人を使ったことのある、気の大きな小竹の隠居に返った。
「御隠居さん、そんなことをなすって下すっちゃ私が困りま
前へ 次へ
全9ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング