すよ。そんな御心配はいらないんですよ。みんな内輪のものばかりですから」
とお力の方では言ったが、それを納めて貰わないことにはお三輪の気が済まなかった。盆暮の仕着せ、折々の心づけ――あの店のさかんな時分には、小竹の印絆纏《しるしばんてん》や手拭まで染めさせて、どれ程多勢の人を悦《よろこ》ばせたことか。都会の婦人に多い見栄《みえ》からでなしに、お三輪はくれられるだけくれて、この池の茶屋に使われている人達をも悦ばせたかった。
「まあ、そう言わずに皆に分けておくれ。年寄に恥をかかせるものじゃないよ。ほんのあたしの志だよ」
とお三輪はその紙の包をお力の手に握らせた。彼女はいくらもない小遣をあらかたそこへ出してしまった。
やがて新七も母を見送る支度をはじめた。お力は人のいない食堂の方にお三輪の席をつくって、出掛ける前の彼女のために、髪を直したり撫《な》でつけたりしてやった。お三輪はもう隠居らしく髪を切っていて、半分男に帰ったようでもあった。
「小伝馬町の富田さんでも、今度の震災ではお気の毒だねえ。あそこの家の子息《むすこ》さんも切通しで亡くなったってねえ。お力はあの子息さんを覚えているだろう」
髪をなでつける人、なでつけて貰う人の間には、すべてが思い出の種でないものはなかった。お三輪のいう小伝馬町の富田さんとは、石町の御隠居さんの家から分れて出た針問屋にあたる。お三輪の母親が勤めたことのあるあの石町の古い店も疾《とっ》くの昔に無い。そこから分れた小伝馬町の店でも、孫の子息さんの代にはだんだんちいさくなって、家族も一人亡くなり、二人亡くなり、最後に残ったその子息さんまでも震災の当時には大火に追われ、本郷の切通し坂まで病躯を運んで行って、あの坂の中途で落命してしまった……
「お母さん、支度が出来たら出掛けましょう」
と新七が母の側へ言いに来る頃は、お力もひどく別れを惜んだ。池の茶屋ではまた一日の活動が始まりかける頃であった。朝早く魚河岸の方へ買出しに行った広瀬さんも金太郎もまだ戻って見えなかったが、新鮮な魚類を載せた車だけは威勢よく先に帰って来て、丁度お三輪が新七と一緒に出掛けようとするところへ着いた。
「広瀬さんにもよろしく。金さんにもよろしく」
と別れを告げて行くお三輪の後を追って、お力は一緒に歩いて来た。芝公園の中を抜けて電車の乗場のある赤羽橋の畔《たもと》までも随《つ》いて来た。
お三輪も別れがたく思って、
「いろいろお世話さま。来られるようだったら、また来ますよ。お力、待っていておくれよ」
それを聞くと、お力は精気の溢《あふ》れた顔を伏せて、眼のふちが紅くなるほど泣いた。
底本:「嵐・ある女の生涯」新潮文庫、新潮社
1969(昭和44年)2月10日発行
1994(平成6年)5月30日32刷
入力:山崎一磨
校正:林 幸雄
2009年1月14日作成
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