いて、ちょっとそちらの様子を見に行って来た後で、また母の側へ来た。新七に言わせると、この大きな震災の打撃は母の想像するような程度のものではない。日頃百円のものを二百円にも三百円にも廻して、現金で遊ばせて置くということも少い商人が、肝心の店の品物をすっかり焼いた上に、取引先まで焼けてしまったでは、どうしようもない。田舎へでも引込むか、ちいさくなるか――誰一人、打撃を受けないものはない。こんな話を新七は母にして聞かせた。
 お三輪は思い出したように、
「あの橘町辺のお店《たな》はどうなったろう」
「バラックを建ててやってはいますが、みんな食べて行くというだけのことでしょう。秋草さんのようなお店《たな》でも御覧なさいな、玉川の方の染物の工場だけは焼けずにあって、そっちの方へ移って行って、今では三越あたりへ品物を入れてると言いますよ――あの立派な呉服屋がですよ」
 こう新七は言って、小竹の旦那として母と一緒に暮した時代のことを振返って見るように、感慨の籠《こも》った調子で、
「今度という今度は私も眼がさめました。横内にしろ、日下部にしろ、三枝にしろ、それから店の番頭達にしろ、あの人達がみんな私から離れて行って見て分りました。今度の震災は何もかもひっくり返してしまったようなものです――昔からある店の屋台骨でも――旧い暖簾《のれん》でも。上のものは下になるし、下のものは上になるし――もう今までのような店なぞを夢に見ているような時じゃありません」
「上のものが下になって、下のものが上になるなんて、何だかお前さんの言うことは恐ろしい」
 とお三輪は言って見た。
「いえ、そういう時が来ているんですよ」と新七は言葉に力を入れて、「お母さんだっても御覧なさいな、茶の湯や清元がこんな時の役にはそう立ちますまい。そこへ行くと、お力なぞはお母さんのようなたしなみはないにしたところで、何かこう下から頭を持ち上げて来るようなところがあるじゃありませんか。あれにはそういう強いものがありますよ。広瀬さんにしたところで、そうです。あの先生には泥だらけな護謨靴《ゴムぐつ》でも何でもはいて、魚河岸を馳《か》け廻って来るような野蛮なところがあります。お母さんの前ですが、私にはそういうものが欠けています」
「お前さんはちいさい時分から祖母《おばあ》さんに可愛がられて、あの祖母さんに仕込まれて、あたしなぞよりもっと東京の人だから、それでそんなことを言うかも知れないけれど……」
「ですから、私はこれまでの小竹ではないつもりですよ。人物さえ確かなら、どんな人とでも手を組んで、尻端折《しりはしょ》りでやるつもりですよ。私はもう今までのような東京の人では駄目だと思って来ました」
「そうかい」
 その時、新七は思わず長話をしたという風で、母の側を離れようとした。立ちがけに、広瀬さんが支那の方へ漫遊を思い立っていて遠からずそれが実行されるであろうこと、その広瀬さんが帰って来る頃にはどれ程この食堂が発展するやも知れないことを母に語り聞かせた。
「そんなら、お前さんはもう未練はないのかい――あの小竹の古い店の暖簾に」
 それを聞いて見たいばかりにお三輪はわざわざ浦和から出て来たようなものであった。


 お三輪は眼に一ぱい涙をためながら、いそがしそうな新七の側を離れて、独りで公園の蓮池の方へ歩いて行った。暗いほど茂った藤棚《ふじだな》の下で、彼女は伜から話されたことを噛《か》み反《かえ》して見た。
「まだお母さんはそんな夢を見てるんですか」
 それはお三輪が念を押した時に、伜の言った言葉だ。彼女には、それほど世が移り変ったとは思われなかった。
 蓮池はすぐ眼にあった。僅《わず》かに二輪だけ花の紅く残った池の中には、青い蓮の実の季節を語り顔なのがあり、葉と葉は茂って、一面に重なり合って、そのいずれもが九月の生気を呼吸していた。お三輪はその藤棚の下の位置から、「池の茶屋」とした旗の出ている方を眺めながら、もう一度休茶屋の近くへ引き返して来た。
 その時になって見ると、お三輪が浦和から胸に描いて来たように、落ちついた心持に帰れるような場所は、ちょっとそこいらに見当らなかった。どうして黒柿の長手の火鉢や、古い馴染《なじみ》の箪笥《たんす》はおろか、池の茶屋の料理場の片隅に皆の立ち働くところを眺めることさえ邪魔になるように思われて、ゆっくり腰の掛けられそうな椅子一つ彼女を待っていなかった。
 休茶屋の近くに古い格子戸のはまった御堂もあった。京橋の誰それ、烏森の何の某《なにがし》、という風に、参詣した連中の残した御札がその御堂の周囲《まわり》にべたべたと貼《は》りつけてある。高い柱の上にも、正面の壁の上にも、それがある。思わずお三輪は旧い馴染の東京をそんなところに見つける気がして、雨にもまれ風にさらさ
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