《とらふ》のある鮎並《あいなめ》、口の大きく鱗《うろこ》の細《こまか》い鱸《すずき》なぞを眺《なが》めるさえめずらしく思った。庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲《まわり》に起って、震災後らしい復興の気分がその料理場に漲《みなぎ》り溢《あふ》れた。
こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人でもなければ、誰が使われるものでもなかった。唯、実力あるものが支配した。そういう広瀬さんも、以前小竹の家に身を寄せていた時分とは違い、今は友達同志として経営するこの食堂に遠慮は反《かえ》って無用とあって、つい忙しい時になると、
「オイ、君」
と新七を呼び捨てだ。新七はそれを聞いても、すこしも嫌《いや》な顔をしなかった。どこまでもこの友達の女房役として、共に事に当ろうとしていた。
昼近い頃には、ぽつぽつ食堂へ訪ねて来る客もあった。腰の低い新七は一々食堂の入口まで迎えに出て、客の帽子から杖までも自分で預かるくらいにした。そして客の註文を聞いたり、いろいろと取持ちをしたりする忙しい中で、ちょっとお三輪を見に来て、今のは名高い日本画家であるとか、今のは名高い支那通であるとか、と母に耳うちした。そういう当世の名士がこの池の茶屋を贔屓《ひいき》にして詰め掛けて来てくれるという意味を通わせた。
「御隠居さん、まあこの景気を御覧なすって下さい」
とお三輪の側へ来て言って見せるのは金太郎だ。見ると、小砂利まじりの路の上を滑《すべ》って来る重い音をさせて、食堂の前で自動車を横づけにする客なぞもあった。
新七はお力に手伝わせて、葦簾《よしず》がこいにした休茶屋の軒下の位置に、母の食卓を用意した。揚物の油の音は料理場の窓越しにそこまで伝わって来ていた。
「御隠居さんはここへいらしって下さい。ここでお昼飯《ひる》を召上って下さい。内《なか》は反ってごたごたいたしますから」
とお力は款待顔《もてなしがお》に言って、お三輪のために膳、箸、吸物椀《すいものわん》なぞを料理場の方から運んで来た。
「おお、これはおめずらしい」
と言いながら、お三輪はすっぽん仕立の吸物の蓋《ふた》を取った。
食堂の方でも客の食事が始まっていた。一しきりはずんで聞えた客の高い笑声も沈まってしまった。さかんな食慾を満たそうとする人達は、ほんとうにうまいものに有りついた最中らしい。話声一つ泄《も》れて来なかった。静かだ。
「どうぞ、御隠居さん、ゆっくり召上って下さいまし。今日はわたしにお給仕させていただきますよ」
と言いながら、お力は過ぐる七年の長い奉公を思い出し顔に、造り身を盛った深皿なぞを順にそこへ運んで来た。このお力の給仕で、広瀬さんが得意の醇粋《じゅんすい》な日本料理を味っていると、焼けない前の小竹の店のことが今更のようにお三輪の胸に浮んで来た。
昼飯後に、お三輪は同じ食卓の側に腰掛けていて、新七が来るのを待った。そこは葦簾のかげから公園の通路を隔ててアカシヤの木の見えるようなところで、親子二人ぎりで話すにはよさそうな場所であった。新七もいそがしい人だ。客へ出す料理の勘定書まで書いて置いて、それから母の側へ来た。
「お母さん、東京へ出て来たついでに焼跡の方へも行って見ますか」
「あたしは焼跡へ行って見る気はしない。そう言えばあの小竹の店の方でサ、お前さんもこれまでいろいろな方を贔屓にしたろう。ほら、画をかく方だとか、俳諧をなさる方だとか、お芝居の方の人達だとか。ああいうお友達は、今でもちょいちょい見えるかい」
「横内に、三枝に、日下部に――あの連中ですか。店が焼けてからこのかた、寄りつきもしません」
「あんなにいろいろとお世話をしてあげて置いて、こういう時の力にはならないものかねえ」
「唯、新劇場の勝野だけは感心ですよ。わざわざこの食堂へ訪ねて来て、京橋時代にはお世話になった。これはいくらでもないが使ってくれと言って、見舞の金を置いて行きましたよ」
しばらく親子の話は途絶えた。震災後、思い思いに暇を取って出て行った以前の番頭や、小僧達の噂がそれからそれと引出されて行った。その時、お三輪は小竹の店のことを新七の前に持ち出した。それを持ち出して、伜《せがれ》の真意を聞こうとした。
新七は言った。
「お母さんは――結局どういうことを言おうとするつもりなんですかね」
昔者のお三輪には、そう若い人達の話すように、思うことが思うようには言い廻せなかった。どうかすると彼女は、伜なぞの使う言葉の意味をすら捉えがたく思うことがあった。
「結局とは何だい」とお三輪は問い返した。
新七は母の言おうとすることが、気に掛ったが、食堂の方にはまだゆっくり話し込んでいる客のあるのに気がつ
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