ってくれるので、休ませて欲しいとは言い出せなかった。
「御隠居さん、お坐りになってはいかがです」
 とお力が気をきかせると、早速金太郎は休茶屋の横手へ腰掛台を持ち出して、蓮池の望まれるところに席を造ってくれた。お力はお力で、座蒲団や煙草盆《たばこぼん》なぞをそこへ運んで来た。
「御隠居さんの前ですが、この食堂は当りましたよ」と金太郎は力を入れて言った。「そりゃ日比谷辺へ行って御覧になると分りますが、震災このかた食物屋の出来ましたこと。何々食堂としたようなのが、雨降揚句の筍《たけのこ》のように増えて来ています。しかし、そんな食堂とは食堂がちがいますよ――旦那も、先生も、これには大骨折りでした」
「こんなところに、こんな好い食堂があるかって、皆さんがよくそう仰《おっしゃ》って下さいますよ」とお力も言葉を添えた。
「これも、しょっちゅう御隠居さんのお噂《うわさ》ばかり」と金太郎はちょっとお力の方を見て、「この九月一日には、私共も集りまして、旦那に、先生に、それから私共夫婦と、四人で記念にビイルなぞを抜きました」
「大方そんなことだろうッて、浦和でもお噂していましたよ」とお三輪が言った。
「それがです、御隠居さん、旦那に祝って頂いたんじゃ私共が済みません。あんなにお力のやつもお世話さまになって置いて、七年もお店に御奉公させて置いて頂いて――その旦那がお酌しようと言って下さるじゃありませんか。オッと、それはいけません、今日は是非とも私に奢《おご》らせて下さいと言って、それから旦那や先生と御一緒にビイルを祝いました」
「震災の時のことを忘れませんよ」
「それを御隠居さんに言って頂くと、私もうれしい」とお力は話を引取って、「あの時は、私共も届きませんでしたけれど……」
「あれから、お前さん、浦和へ着くまでがなかなか大変でしたよ」とお三輪も思わず焼出された当時の心持を引出された。「平常《ふだん》なら一時間足らずで行かれるところなんでしょう、それを六時間も七時間もかかって……途中で渡れるか渡れないか知れないような橋を渡って……浦和へ着いた頃は、もう真暗サ。あの時は新七が宿屋を探してくれてね。その宿屋でお結飯《むすび》を造ってくれたとお思い……子供がそのお結飯を見たら、手につかんで離さないじゃないか。みんな泣いちまいましたよ……」
 広瀬さんがそこへお三輪を見に来た。金太郎は広瀬さんの顔を見ると、
「今、御隠居さんからお話を伺ってるところです。そう言えば、あの震災の時は先生だっても、面白い服装《なり》をして私共へ尋ねて来て下すったじゃありませんか。ほら、太い青竹なぞを杖《つえ》について……」
「そこから、君、この食堂が生れて来たようなものだよ」
 と言って見せて広瀬さんも笑った。
「でも、御隠居さんが今度出て来て下すって、ほんとに私はうれしい」とお力は半分独りごとのように、「私のようなもののところへも、御恩返しをする日が来たような気もしますよ。何年となく私はこんな日の来るのを待っていたようなものですよ」
 その日はこんな話が尽きなかった。


 久しぶりでお三輪の出て来て見た東京は何となく勝手の違うようなところで、見るもの聞くものが彼女の心を落ちつかせなかった。ここに比べると、浦和の町の方は静かな田舎《いなか》という感じが深い。着いた晩は、お三輪もお力の延べてくれた床に入って、疲れた身体《からだ》を休めようとしたが、生憎《あいにく》と自動車や荷馬車の音が耳についてよくも眠られなかった。この公園に近い休茶屋の外には一晩中こんな車の音が絶えないのかとお三輪に思われた。
 朝になって見ると、広瀬さんは早く魚河岸《うおがし》の方へ出掛けて行く。前の日に見えなかった料理方の人達も帰って来ていて、それぞれ一日の支度を始める。新七もじっとしていなかった。休茶屋の軒先には花やかな提灯《ちょうちん》などを掛け連ねさせ、食堂の旗を出す指図までして廻った。彼はまた、お三輪の見ている前で、食堂の内にある食卓の上までも拭《ふ》いた。
 そこへお力が顔を出した。
「旦那さんはそんなことまでなさらなくてもようござんす。手はいくらもあります。旦那さんは帳場の前に腰掛けていて下さればいい方です」
 とお力は言って、新七の手から布巾《ふきん》を奪い取るようにした。
 魚河岸の方へ行った連中が帰って来てからは、料理場の光景も一層の賑《にぎや》かさを増した。料理方の人達はいずれも白い割烹着に手を通して威勢よく働き始めた。そこにはイキの好い魚を洗うものがある。ここには芋の皮をむき始めるものがある。広瀬さんは背広に長い護謨靴《ゴムぐつ》ばきでその間を歩き廻った。素人《しろうと》ながらに、近海物と、そうでない魚とを見分けることの出来るお三輪は、今|陸《おか》へ揚ったばかりのような黒く濃い斑紋
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング