ような新しい食堂らしい旗も出ている。それには、池に近い位置に因《ちな》んで「池の茶屋」とした文字もあらわしてある。お力夫妻はそこにお三輪や新七を待ちうけていた。
「御隠居さんがいらしった」
という声がお三輪の耳に入った。お力だ。そういうお力は旧主人を迎え顔に、誰よりも先にそこへ飛んで出て来た。
入口には休日とした札の掛けてある日で、お三輪も皆のいそがしくないところへ着いた。彼女は新七の側に立ちながら、広瀬さんにも逢い、お力の亭主の金太郎にも逢った。その休茶屋は、日除《ひよけ》を軒の高さに張出してあるところから腰掛台なぞを置いてあるところまで、見附きこそ元のかたちとあまり変りはなかったが、内へ入って見ると、この前に一度お三輪が上京した時とは殆んど別の場所のようになっていた。
「これが料理場かい」
とお三輪は新七に言って、何もかも新規なその窓ぎわのところに腰掛けながら休んだ。
「お母さんには食堂の方で休んで頂いたら」
広瀬さんは新七の方を見て、親しい友達のような口をきいた。
「どれ、一つおめにかけますかな」と新七もわざと改まったような調子で、「どうして、これまでにするのはなかなか容易じゃなかった」
この新七や広瀬さんに案内されて、やがてお三輪も食堂の方へ行って見た。窓が二つあって、一方は公園の通路に添い、一方は深い木の葉に掩《おお》われている。その窓際《まどぎわ》には一段と高い床が造りつけてあって、そこに支那風の毛氈《もうせん》なぞも敷きつめてある。部屋の装飾はすべて広瀬さんの好みらしく、せいぜい五組か六組ほどの客しか迎えられない狭い食堂ではあるが、食卓の置き方からして気持好く出来ていた。
「どうです、この食堂は」と新七は母に言った。「外からの見つきは、あまり好くもありませんが、内部《なか》へ入って見ると違いましょう」
「まあ、俄普請《にわかぶしん》としては、こんなものです」と広瀬さんも食堂の内を歩き廻りながら、「お母さんも御承知の通り、今は寄席《よせ》も焼け、芝居も焼けでしょう。娯楽という娯楽の機関は何もない時です。食物より外に誰も楽みがない。そこでこんな食堂の仕事ならば、まあ成り立つというものです。われわれの方から言いましても、こうしてお互いに焼出されてしまって、何か食う道を考えなけりゃなりません。この仕事なら、皆のものが食って行かれる――」
「食って行かれるは好かった」と新七も笑い出した。
静かな光線が射して来ている窓際を選んで、お三輪はある食卓の側に腰掛けた。彼女は料理場の方から茶を運んで来る給仕娘にも挨拶《あいさつ》した。お力もそこへやって来て、新たに雇い入れたその給仕娘の外に、今は「先生」の下で働いている料理の見習人が四五人もある、とお三輪に話し聞かせた。
お力のいう「先生」とは広瀬さんのことだ。その広瀬さんはお三輪の側へ椅子を引寄せながら、
「なにしろ、この震災の後ですから、食器もまだ思うようなのが手に入りません。これで器《うつわ》が好いと、同じものでもお客さんがうまく味って下さる。今はそれが利きません。そこへ出すものは、何でも正味の料理だけなんですからね。料理人は骨が折れますよ」
「きまったお客さんはおもに京橋時代からの店のお得意です」と新七も母に言って見せた。
「時節が時節ですから、皆さんの来易いようにして、安く召上って頂く。定食が三円、それ以上はお望み次第ということにしています。そりゃ店のお得意とは限っていません、どなたにでも自由に来て頂いています。近いところなら仕出しもしています」
「しかし、お客さんと言いましても、われわれの作ったものを味って下さる方は少いものですね」と言って、広瀬さんは新七と顔を見合せた。「お母さんのように素人《しろうと》でも料理の解る方があるかと思うと、私も張合がある。今日はまあ休日で仕方がないとしても、明日は一つ腕を振いますかナ。久しぶりで何かうまいものをお母さんに御馳走《ごちそう》しますかナ」
お三輪は椅子を離れて、木彫《きぼり》の扁額《がく》の掛けてある下へも行って見た。新七に言わせると、その額も広瀬さんがこの池の茶屋のために自分で書き自分で彫ったものであった。お三輪はまた、めずらしい酒の瓶《びん》が色彩《いろどり》として置いてあるような飾棚《かざりだな》の前へも行って見た。そこにも広瀬さんの心はよく働いていた。食堂の片隅《かたすみ》には植木鉢も置いてあって、青々とした蘭の葉が室内の空気に息づいているように見える。どことなく支那趣味の取り入れてあるところは、お三輪に取って、焼けない前の小竹の店を想い起させるようなものばかりであった。
その日は、お三輪はお力に案内されて料理場の内をもあちこちと見て廻った。お三輪もすこし疲れを覚えたが、お力夫婦がいろいろと取持
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