もなく、旧いものの壊《こわ》れる日が既に来ていたろうかとは、母のような人でなければ疑えない事であった。先代を助けて店をあれまでにした母として見たら、新しい食堂なぞに新七の手を出すことは好まないと言うかも知れない。しかし、お三輪はどこまでも新七を信じようとした。
母はまた、年をとるほど好き嫌《きら》いも激しかった。そのためにお三輪の旦那とは合わないで、幼少《ちいさ》な時分の新七をひどく贔屓《ひいき》にした。母はどれ程あの児を可愛がったものとも知れなかった。この好き嫌いの激しい母が今のお富と一緒に暮しているとしたら、そこにも風波は絶えなかったかも知れないが、しかしお三輪は唯の一度もお富と争った事がない。「そうかい、そうかい」と言って何事も娵《よめ》に従って来た。いたずら盛りの孫が障子を破ろうと、お三輪はそれを叱ったこともない。自分で糊《のり》と紙を持って行って、何度でも子供の破った障子を繕ってやった。それほど孫にまで逆らうまいとして来た。母の思惑《おもわく》もさることながら、お三輪は自分で台所に出て皆のために働くことを何よりの楽みに思い、夜も遅くまで皆のために着物を縫い、時には娵や子守娘まで自分の側に坐らせて、昔をしのぶ端唄《はうた》の一つも歌って聞かせながら、田舎《いなか》住居のつれづれを慰めようとしたこともある。
「お三輪、お前はそれでいい。死ぬまで皆のために働いて、自分に出来るだけのことをするがいい」
そういう母の声を耳の底に聞きつけるまでは、お三輪は安心しなかった。
「おばあちゃん、東京へ行くの」
この孫の問に驚かされて、お三輪は我に返った。娵と二人ぎりになると、出ない日のない東京の方の噂《うわさ》が、いつの間にか子供の耳に入っているのにも、びっくりした。
「ああ、坊やはおとなしくお留守居しているんだよ」
と事もなげに言って見せた。
焼けない前の小竹の奥座敷を思出しながら今の部屋を見ると、江戸好みの涼しそうな団扇《うちわ》一本お三輪の眼には見当らなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜しい着物のことなぞがつぎつぎにお三輪の胸に浮んで来る。彼女はまたよくそれを覚えていて、新七のにするつもりでわざわざ西京まで染めにやった羽織の裏の模様や、一度も手を通さず仕舞に焼いてしまったお富の長襦袢《ながじゅばん》の袖までも、ありありと眼に見ることが出来た。もう一度東京へ――娘時分からの記憶のある東京へ――その考えは一日も彼女から離れなかった。それなしには落ちついて坐った気にもなれない黒柿の長手の火鉢も、古い馴染《なじみ》の箪笥も、あの都会の方には彼女を待っているように思われた。
孫達は、と見ると、子供らしい腰につけた巾着《きんちゃく》の鈴の音をさせながら、子守娘を相手にお三輪の周囲《まわり》に遊び戯れていた。彼女は半分|独《ひと》りごとのように、
「あの秩父のお山のずっと向うの方が、東京だよ。ずっと、ずっと向うの方だよ。東京は遠いねえ」
やがて新七もいそがしい中に僅かの暇を見つけ、一晩泊りがけで浦和まで母を迎えにやって来てくれた。その翌日は食堂の定休日にあたるというので、お三輪もやや安心して、東京の方へ向う支度をした。彼女はすこし背をこごめ、女のたしなみを失わない程度で片足ずつそこへ出しながら、白い新しい足袋をはこうとした。その鞐《こはぜ》を掛ける時に、昔は紐《ひも》のついた足袋《たび》のあったことを思い出した。その足袋の紐を結んで、水天宮さまのお参りにでもなんでも出掛けたことを思い出した。そんな旧いことが妙に彼女の胸へ来た。出がけに、彼女は仮の仏壇のところへ行って、
「お母さん、行ってまいります」
と告げて行くことを忘れなかった。
「おばあちゃん、おばあちゃん」
とそこへ来て言って、一緒に東京へ行きたがるのは年上の方の孫だ。お三輪はそれをどうすることも出来なかった。
「坊やも連れて行かれないかねえ」
とお三輪が言うと、新七は首を振って、
「どうして、まだそんな時じゃありませんよ」
と母にもお富にも言って見せた。
間もなくお三輪は新七に連れられて出掛けた。彼女も年をとって、誰か連れなしに独りで汽車にも乗れなかった。震災後は汽車の窓から眼に入る人家も激しく変って来ている頃であった。日に光るトタン葺《ぶ》きの屋根、新たに修繕の加えられた壁、ところどころに傾いた軒なぞのまだそのままに一年前のことを語り顔なのさえあった。
東京まで出て行って見ると、震災の名残《なごり》はまだ芝の公園あたりにも深かった。そこここの樹蔭には、不幸な避難者の仮小屋も取払われずにある。公園の蓮池を前に、桜やアカシヤが影を落している静かな一隅が、お三輪の目ざして行ったところだ。葦簾《よしず》で囲った休茶屋の横手には、人目をひく
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