そうとする人達は、ほんとうにうまいものに有りついた最中らしい。話声一つ泄《も》れて来なかった。静かだ。
「どうぞ、御隠居さん、ゆっくり召上って下さいまし。今日はわたしにお給仕させていただきますよ」
 と言いながら、お力は過ぐる七年の長い奉公を思い出し顔に、造り身を盛った深皿なぞを順にそこへ運んで来た。このお力の給仕で、広瀬さんが得意の醇粋《じゅんすい》な日本料理を味っていると、焼けない前の小竹の店のことが今更のようにお三輪の胸に浮んで来た。
 昼飯後に、お三輪は同じ食卓の側に腰掛けていて、新七が来るのを待った。そこは葦簾のかげから公園の通路を隔ててアカシヤの木の見えるようなところで、親子二人ぎりで話すにはよさそうな場所であった。新七もいそがしい人だ。客へ出す料理の勘定書まで書いて置いて、それから母の側へ来た。
「お母さん、東京へ出て来たついでに焼跡の方へも行って見ますか」
「あたしは焼跡へ行って見る気はしない。そう言えばあの小竹の店の方でサ、お前さんもこれまでいろいろな方を贔屓にしたろう。ほら、画をかく方だとか、俳諧をなさる方だとか、お芝居の方の人達だとか。ああいうお友達は、今でもちょいちょい見えるかい」
「横内に、三枝に、日下部に――あの連中ですか。店が焼けてからこのかた、寄りつきもしません」
「あんなにいろいろとお世話をしてあげて置いて、こういう時の力にはならないものかねえ」
「唯、新劇場の勝野だけは感心ですよ。わざわざこの食堂へ訪ねて来て、京橋時代にはお世話になった。これはいくらでもないが使ってくれと言って、見舞の金を置いて行きましたよ」
 しばらく親子の話は途絶えた。震災後、思い思いに暇を取って出て行った以前の番頭や、小僧達の噂がそれからそれと引出されて行った。その時、お三輪は小竹の店のことを新七の前に持ち出した。それを持ち出して、伜《せがれ》の真意を聞こうとした。
 新七は言った。
「お母さんは――結局どういうことを言おうとするつもりなんですかね」
 昔者のお三輪には、そう若い人達の話すように、思うことが思うようには言い廻せなかった。どうかすると彼女は、伜なぞの使う言葉の意味をすら捉えがたく思うことがあった。
「結局とは何だい」とお三輪は問い返した。


 新七は母の言おうとすることが、気に掛ったが、食堂の方にはまだゆっくり話し込んでいる客のあるのに気がつ
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