別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
 私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為《し》なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
 君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路《こうじ》や、田圃側《たんぼわき》の細い道なぞを択《えら》んで、勝手を知った人々は多く往《い》ったり来たりする。
 私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一|瞥《べつ》して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾《のれん》と対照を成して土地の気質や殷富《とみ》を表している。
 麦秋《むぎあき》だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面《のら》が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包《こもづつみ》を提げた百姓とも一緒に成った。
 仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、漸《ようや》く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入《みいり》も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故《せい》かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
 百姓は眺め眺め答えた。
 東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀《かみ》さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋|天馬町《てんまちょう》の針問屋とか、浅草|猿屋町《さるやちょう》の隠宅とかは、君にも私に可懐《なつか》しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
 山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲んだ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓《さんてん》も望まれるという。池の辺《ほとり》に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉《こうらいひば》を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹《ひ》かなかった。
 私達は眺望《ちょうぼう》のある二階の部屋へ案内された。田舎縞《いなかじま》の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店《おおだな》の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍《かたわら》へ来た。池の鯉《こい》の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下《した》には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
 一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐《ひややっこ》の皿にのみ花鰹節《はながつお》が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油《しょうゆ》ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節《おかか》をすこしかいて来ておくれ」
 と楼梯《はしごだん》のところから階下《した》を覗《のぞ》いて、小僧に吩咐《いいつ》けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
 やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質《たち》が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃《さかずき》を啣《ふく》んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打《かたきうち》だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩《たた》いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
 階下では、大きな巾着《きんちゃく》を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌《きげん》を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬《こでまり》の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍《おど》るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
 池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
 番頭は鼻の先へ握り拳《こぶし》を重ねて、大天狗《だいてんぐ》をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
 こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘《あいあいがさ》というやつはナカナカ意気なものですから」
 と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復《ま》た小僧が追いかけて来た。

     毒消売の女

「毒消は宜《よ》う御座んすかねえ」
 家々の門《かど》に立って、鋭い越後訛《えちごなまり》で呼ぶ女の声を聞くように成った。
 黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷《ふろしき》、日をうけて光る笠、あだかも燕《つばめ》が同じような勢揃《せいぞろ》いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方《かなた》、此方《こなた》の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気|壮《さか》んなところまで互によく似ている。

     銀馬鹿

「何処《どこ》の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
 貧しい町を通って、黒い髭《ひげ》の生えた飴屋《あめや》に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛《とうじんぶえ》を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還《ゆきかえり》によく通るところだ。岩石の多い桑畠《くわばたけ》の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳《ひ》いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠《ほふ》った豚の股《もも》が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他《ひと》に占領されてそれを知らずに働いているともいう。

     祭の前夜

 春蚕《はるこ》が済む頃は、やがて土地では、祇園祭《ぎおんまつり》の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院《おてら》の僧侶《ぼうさん》すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚《かいこだな》と、襲うような臭気と、蚕の睡眠《ねむり》と、桑の出来不出来と、ある時は殆《ほと》んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰《もら》わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
 秤を腰に差して麻袋を負《しょ》ったような人達は、諏訪《すわ》、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎《やどや》は一時|繭買《まゆかい》の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景《さま》も、何となく町々に活気を添えるのである。
 二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸《ようや》く晴れた。霖雨《ながあめ》の後の日光は殊《こと》にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗《ききょう》色に顕《あら》われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
 私は町の団体の暗闘に就《つ》いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾《ごたごた》を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾《しめかざ》りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿《みこし》を担《かつ》ぎ込まれるが煩《うるさ》さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑《にぎわ》いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
 夜に入って、「湯立《ゆだて》」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯《ちょうちん》つけて社《やしろ》の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子《あめがし》を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
 本町の通には紅白の提灯が往来《ゆきき》の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋《はとや》のI、紙店《かみみせ》のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。

     十三日の祇園《ぎおん》

 十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休《やす》まないでは毎時《いつでも》論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽《たる》を持出し、毛布《ケット》をひろげ、その上に飲食《のみくい》する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人《こあきんど》はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋《やおや》夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀《かみさん》とが互に片肌抜《かたはだぬぎ》で、稲荷鮨《いなりずし》を漬《つ》けたり、海苔巻《のりまき》を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣《ひとえ》を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
 午後に、家のものはB姉妹の許《もと》へ招かれて御輿《みこし》の通るのを見に行った。Bは清少納言《せいしょうなごん》の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞《つ》くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾《あおすだれ》を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適《ふさ》わしい。
 祭を見に来た人達は鄙《ひな》びた絵巻物を繰展《くりひろ》げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬《とうちりめん》の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷《まげ》にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘《こうもりがさ》をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂《まえだれ》をして尻端《しりはし》を折った児もある。黒い、太い足に白足袋《しろたび》を穿《はい》て、裾《すそ》の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢|辺《あた》りの客と見えて、
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