ら、蚕祭というのをする。その日は繭《まゆ》の形を米の粉で造り、笹の葉に載せて祭るのだ。
二月八日の道祖神《どうそじん》の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。土地の人は訛《なま》って「どうろく神」と呼んでいる。あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さな祠《ほこら》のところへ藁《わら》の馬に餅《もち》を載せて曳《ひ》いて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。幼いものの楽《たのし》みとする日だ。
御辞儀
私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起《ひきおこ》したことを、後で私は理学士から聞いた。一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山《もりやま》あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体躯《たいく》を具えた、何か為ずにはいられないような人だ。こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫《とばしり》が医者仲間なぞにまで飛んで行く。細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成を看《み》て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。急に医者仲間も坐り直した。何事《なんに》も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。すると先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。
春の先駆《せんく》
一雨ごとに温暖《あたたか》さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾《つぼみ》も次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔《あおごけ》も急に活《い》き返る。心地《ここち》の好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微《かす》かな風に送られる。
私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随《したが》って消《きえ》て行く。すると復《ま》た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな乳青《にゅうせい》の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。
星
月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。
第一の花
「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息《ためいき》が出る。五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいる槲《かしわ》、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木《しゃくなぎ》、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶《つや》を持って来た。家へ帰って庭を眺めると、土塀《どべい》に映る林檎《りんご》や柿の樹影《こかげ》は何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端《のきば》に群を成す。私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆《あずき》草、蓬《よもぎ》、蛇《へび》ぐさ、人参《にんじん》草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」の花と、紫の斑《ふ》のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。それがこの山の上で見つけた第一の花だ。
山上の春
貯えた野菜は尽き、葱《ねぎ》、馬鈴薯《じゃがいも》の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々|若布《わかめ》の味噌汁《みそしる》でも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を匍《は》う青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物《たべもの》の乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐《しみどうふ》かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅《くさもち》はいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠《うすいとうげ》を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野《むさしの》の名残《なごり》を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌《も》え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉《ふるは》と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅《ほしいまま》に楽むことが出来る。それまで堪《こら》えていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜から李《すもも》、杏《あんず》、茱萸《ぐみ》などの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢《あふ》れていないところは無い。懐古園の城址《しろあと》へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……
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「千曲川のスケッチ」奥書
このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃《しなの》の山の上でつくったスケッチは少くなかったが、人に示すべきものでもなかったので、その中から年若い人達の読み物に適しそうなもののみを選み出し、更にそれを書き改めたりなぞして、明治の末の年から大正のはじめへかけ当時西村|渚山《しょざん》君が編輯《へんしゅう》している博文館の雑誌「中学世界」に毎月連載した。「千曲川《ちくまがわ》のスケッチ」と題したのもその時であった。大正一年の冬、佐久良《さくら》書房から一巻として出版したが、それが小冊子にまとめてみた最初の時であった。
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実際私が小諸《こもろ》に行って、饑《う》え渇《かわ》いた旅人のように山を望んだ朝から、あの白雪の残った遠い山々――浅間、牙歯《ぎっぱ》のような山続き、陰影の多い谷々、古い崩壊の跡、それから淡い煙のような山巓《さんてん》の雲の群、すべてそれらのものが朝の光を帯びて私の眼に映った時から、私はもう以前の自分ではないような気がしました。何んとなく私の内部には別のものが始まったような気がしました。
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これは後になってからの自分の回顧であるが、それほどわたしも新しい渇望を感じていた。自分の第四の詩集を出した頃、わたしはもっと事物を正しく見ることを学ぼうと思い立った。この心からの要求はかなりはげしかったので、そのためにわたしは三年近くも黙して暮すようになり、いつ始めるともなくこんなスケッチを始め、これを手帳に書きつけることを自分の日課のようにした。ちょうどわたしと前後して小諸へ来た水彩画家|三宅克巳《みやけかつみ》君が袋町というところに新家庭をつくって一年ばかり住んでおられ、余暇には小諸義塾の生徒をも教えに通われた。同君の画業は小諸時代に大に進み、白馬会の展覧会に出した「朝」の図なぞも懐古園附近の松林を描いたもののように覚えている。わたしは同君に頼んで画家の用いるような三脚を手に入れ、時にはそれを野外へ持ち出して、日に日に新しい自然から学ぶ心を養おうとしたこともある。浅間|山麓《さんろく》の高原と、焼石と、砂と、烈風の中からこんなスケッチが生れた。
過ぎ去った日のことをすこしここに書きつけてみる。わたしたちの旧《ふる》い「文学界」、あの同人の仕事もわたしが仙台から東京の方へ引き返す頃にはすでに終りを告げたが、五年ばかりも続いた仕事が今日になって反《かえ》って意外な人々に認められ、若いロマンチックと呼ばれる声をすら聞きつける。今日からあの時代を振り返ってみたら、それも謂《いわ》れのあることであろう。いかに言ってもわたしたちは踏み出したばかりで、経験にも乏しく、殊《こと》に自分なぞは当時を追想する度《たび》に冷汗《ひやあせ》の出るようなことばかり。それにしても、わたしたちの弱点は歴史精神に欠けていたことであった。もしその精神に欠くるところがなかったなら、自国にある古典の追求にも、西欧ルネッサンスの追求にも、あるいはもっと深く行き得たであろう。平田|禿木《とくぼく》君も言うように、上田敏君は「文学界」が生んだ唯一の学者である。その上田君の学者的態度を以《もっ》てしてもこの国独自な希臘《ギリシャ》研究を残されるところまで行かなかったのは惜しい。西欧ルネッサンスに行く道は、希臘に通ずる道であるから、当然上田君のような学者にはその準備もあったろう。しかし同君はそちらの方に深入りしないで、近代象徴詩の紹介や翻訳《ほんやく》に歩みを転ぜられたように思われる。
このスケッチをつくっていた頃、わたしは東京の岡野知十君から俳諧雑誌「半面」の寄贈を受けたことがあった。その新刊の号に斎藤|緑雨《りょくう》君の寄せた文章が出ている。緑雨君の筆はわたしのことにも言い及んである。
「彼も今では北佐久郡の居候《いそうろう》、山猿《やまざる》にしてはちと色が白過ぎるまで」
緑雨君はこういう調子の人であった。うまいとも、辛辣《しんらつ》とも言ってみようのない、こんな言い廻しにかけて当時同君の右に出るものはなかった。しかし、東京の知人等からも離れて来ているわたしに取っては、おそらくそれが最後に聴きつけた緑雨君の声であったように思う。わたしは文学の上のことで直接に同君から学んだものとても殆《ほと》んどないのであるが、しかし世間智に富んだ同君からいろいろ啓発されたことは少くなかった。鴎外《おうがい》、思軒《しけん》、露伴、紅葉、その他諸家の消息なぞをよくわたしに語って聞かせたのも同君であった。同君|歿後《ぼつご》に、馬場|孤蝶《こちょう》君は交遊の日のことを追想して、こんなに亡くなった後になってよく思い出すところを見ると、やはりあの男には人と異なったところがあったと見えると言われたのも同感だ。
紅葉山人の死を小諸の方にいて聞いた頃のことも忘れがたい。わたしは一年に一度ぐらいしか東京の
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