亜刺比亜《アラビア》産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御|喜悦《よろこび》は何程《どんな》でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓《ふもと》の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
静かな山村の夜――河水の氾濫《はんらん》を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯《ともしび》――鄙《ひな》びた旅舎《やどや》の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊《そうゆう》の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地《うまどころ》だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶《ふろおけ》が下水の溜《ため》の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――
前へ
次へ
全189ページ中71ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング