の虫の声が水音と一緒に成って、この谷間に満ちていた。その他暗い沢の底の方には種々な声があった。――遅くなって戸を閉める音、深夜の人の話声、犬の啼声《なきごえ》、楽しそうな農夫の唄。
 四日目の朝まだ暗いうちに、私達は月明りで仕度《したく》して、段々夜の明けて行く山道を別所の方へ越した。

     学窓の一

 夏休みも終って、復《ま》た私は理学士やB君や、それから植物の教師などと学校でよく顔を合せるように成った。
 秋の授業を始める日に、まだ桜の葉の深く重なり合ったのが見える教室の窓の側で、私は上級の生徒に釈迦《しゃか》の話をした。
 私は『釈迦譜《しゃかふ》』を選んだ。あの本の中には、王子の一生が一篇の戯曲《ドラマ》を読むように写出《うつしだ》してある。あの中から私は釈迦の父王の話、王子の若い友達の話なぞを借りて来て話した。青年の王子が憂愁に沈みながら、東西南北の四つの城門から樹園の方へ出て見るという一節は、私の生徒の心をも引いたらしい。一つの門を出たら、病人に逢った。人は病まなければ成らないかと王子は深思した。他の二つの門を出ると、老人に逢い、死者に逢った。人は老いなければ成らな
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