れを聞くと、私も噴飯《ふきだ》さずにはいられなかった。
 やがて、三人は口笛を吹き吹き一緒に泊っている旅舎《やどや》の方へ別れて行った。
 この温泉から石垣について坂道を上ると、そこに校長の別荘の門がある。楼の名を水明楼としてある。この建物はもと先生の書斎で、士族屋敷の方にあったのを、ここへ移して住まわれるようにしたものだ。閑雅な小楼で、崖に倚《よ》って眺望の好い位置に在る。
 先生は共立学校時代の私の英語の先生だ。あの頃は先生も男のさかりで、アアヴィングの「リップ・ヴァン・ウィンクル」などを教えてくれたものだった。その先生が今ではこういうとこに隠れて、花を植えて楽んだり鉱泉に老を養ったりするような、白髯《はくぜん》の翁《おきな》だ。どうかすると先生の口から先生自身がリップ・ヴァン・ウィンクルであるかのような戯談《じょうだん》を聞くこともある。でも先生の雄心は年と共に銷磨《しょうま》し尽すようなものでもない。客が訪ねて行くと、談論風発する。
 水明楼へ来る度《たび》に、私は先生の好く整理した書斎を見るのを楽みにする。そればかりではない、千曲川の眺望はその楼上の欄《てすり》に倚りながら恣
前へ 次へ
全189ページ中49ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング