三人の女はまだ残って働いていた。私が振返って彼等を見た時は、暗い影の動くとしか見えなかった。全く暮れ果てた。
巡礼の歌
乳呑児《ちのみご》を負《おぶ》った女の巡礼が私の家の門《かど》に立った。
寒空には初冬《はつふゆ》らしい雲が望まれた。一目見たばかりで、皆な氷だということが思われる。氷線の群合とも言いたい。白い、冷い、透明な尖端《せんたん》は針のようだ。この雲が出る頃に成ると、一日は一日より寒気を増して行く。
こうして山の上に来ている自分等のことを思うと、灰色の脚絆《きゃはん》に古足袋を穿《は》いた、旅窶《たびやつ》れのした女の乞食《こじき》姿にも、心を引かれる。巡礼は鈴を振って、哀れげな声で御詠歌を歌った。私は家のものと一緒に、その女らしい調子を聞いた後で、五厘銅貨一つ握らせながら、「お前さんは何処ですネ」と尋ねた。
「伊勢でござります」
「随分遠方だネ」
「わしらの方は皆なこうして流しますでござります」
「何処《どっち》の方から来たんだネ」
「越後《えちご》路から長野の方へ出まして、諸方《ほうぼう》を廻って参りました。これから寒くなりますで、暖い方へ参りますでござりますわい」
私は家のものに吩咐《いいつ》けて、この女に柿をくれた。女はそれを風呂敷包にして、家のものにまで礼を言って、寒そうに震えながら出て行った。
夏の頃から見ると、日は余程南よりに沈むように成った。吾家の門に出て初冬の落日を望む度に、私はあの「浮雲似[#二]故丘[#一]」という古い詩の句を思出す。近くにある枯々な樹木の梢は、遠い蓼科《たでしな》の山々よりも高いところに見える。近所の家々の屋根の間からそれを眺めると丁度日は森の中に沈んで行くように見える。
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その八
一ぜんめし
私は外出した序《ついで》に時々立寄って焚火《たきび》にあてて貰《もら》う家がある。鹿島神社の横手に、一ぜんめし、御休処《おんやすみどころ》、揚羽屋《あげばや》とした看板の出してあるのがそれだ。
私が自分の家から、この一ぜんめし屋まで行く間には大分知った顔に逢う。馬場裏の往来に近く、南向の日あたりの好い障子のところに男や女の弟子《でし》を相手にして、石菖蒲《せきしょうぶ》、万年青《おもと》などの青い葉に眼を楽ませながら錯々《せっせ》と着物を造《こしら》える仕立屋が居る。すこし行くと、カステラや羊羹《ようかん》を店頭《みせさき》に並べて売る菓子屋の夫婦が居る。千曲川の方から投網《とあみ》をさげてよく帰って来る髪の長い売卜者《えきしゃ》が居る。馬場裏を出はずれて、三の門という古い城門のみが残った大手の通へ出ると、紺暖簾《こんのれん》を軒先に掛けた染物屋の人達が居る。それを右に見て鹿島神社の方へ行けば、按摩《あんま》を渡世にする頭を円《まる》めた盲人《めくら》が居る。駒鳥《こまどり》だの瑠璃《るり》だのその他小鳥が籠《かご》の中で囀《さえず》っている間から、人の好さそうな顔を出す鳥屋の隠居が居る。その先に一ぜんめしの揚羽屋がある。
揚羽屋では豆腐を造るから、服装《なりふり》に関わず働く内儀《かみ》さんがよく荷を担《かつ》いで、襦袢《じゅばん》の袖で顔の汗を拭き拭き町を売って歩く。朝晩の空に徹《とお》る声を聞くと、アア豆腐屋の内儀さんだと直《すぐ》に分る。自分の家でもこの女から油揚《あぶらあげ》だの雁《がん》もどきだのを買う。近頃は子息《むすこ》も大きく成って、母親《おっか》さんの代りに荷を担いで来て、ハチハイでも奴《やっこ》でもトントンとやるように成った。
揚羽屋には、うどんもある。尤《もっと》も乾うどんのうでたのだ。一体にこの辺では麺《めん》類を賞美する。私はある農家で一週に一度ずつ上等の晩餐《ばんさん》に麺類を用うるという家を知っている。蕎麦《そば》はもとより名物だ。酒盛の後の蕎麦振舞と言えば本式の馳走《ちそう》に成っている。それから、「お煮掛《にかけ》」と称えて、手製のうどんに野菜を入れて煮たのも、常食に用いられる。揚羽屋へ寄って、大鍋《おおなべ》のかけてある炉辺《ろばた》に腰掛けて、煙の目にしみるような盛んな焚火にあたっていると、私はよく人々が土足のままでそこに集りながら好物のうでだしうどんに温熱《あたたかさ》を取るのを見かける。「お豆腐のたきたては奈何《いかが》でごわす」などと言って、内儀さんが大丼《おおどんぶり》に熱い豆腐の露を盛って出す。亭主も手拭を腰にブラサゲて出て来て、自分の子息が子供|相撲《ずもう》に弓を取った自慢話なぞを始める。
そこは下層の労働者、馬方、近在の小百姓なぞが、酒を温めて貰うところだ。こういう暗い屋根の下も、煤《すす》けた壁も、汚《よご》れた人々の顔も、それほど私には苦に成らなく成った。
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