胡麻塩《ごましお》頭の父と十四五ばかりに成る子とが互に長い槌《つち》を振上げて籾《もみ》を打った。その音がトントンと地に響いて、白い土埃《つちほこり》が立ち上った。母は手拭を冠り、手甲《てっこう》を着けて、稲の穂をこいては前にある箕《み》の中へ落していた。その傍《かたわら》には、父子《おやこ》の叩いた籾を篩《ふるい》にすくい入れて、腰を曲めながら働いている、黒い日に焼けた顔付の女もあった。それから赤い襷掛《たすきがけ》に紺足袋穿という風俗《なり》で、籾の入った箕を頭の上に載せ、風に向ってすこしずつ振い落すと、その度に粃《しいな》と塵埃《ほこり》との混り合った黄な煙を送る女もあった。
日が短いから、皆な話もしないで、塵埃《ほこり》だらけに成って働いた。岡の向うには、稲田や桑畠を隔てて、夫婦して笠を冠って働いているのがある。殊にその女房が箕を高く差揚げ風に立てているのが見える。風は身に染みて、冷々《ひやひや》として来た。私の眼前《めのまえ》に働いていた男の子は稲村に預けて置いた袖なし半天を着た。母も上着《うわっぱり》の塵埃《ほこり》を払って着た。何となく私も身体がゾクゾクして来たから、尻端折《しりはしょり》を下して、着物の上から自分の膝を摩擦しながら、皆なの為ることを見ていた。
鍬を肩に掛けて、岡づたいに家の方へ帰って行く頬冠りの男もあった。鎌を二|挺《ちょう》持ち、乳呑児を背中に乗せて、「おつかれ」と言いつつ通過ぎる女もあった。
眼前《めのまえ》の父子《おやこ》が打つ槌の音はトントンと忙しく成った。
「フン」、「ヨウ」の掛声も幽《かす》かに泄《も》れて来た。そのうちに、父はへなへなした俵を取出した。腰を延ばして塵埃の中を眺める女もあった。田の中には黄な籾の山を成した。
その時は最早暮色が薄く迫った。小諸の町つづきと、かなたの山々の間にある谷には、白い夕靄《ゆうもや》が立ち籠《こ》めた。向うの岡の道を帰って行く農夫も見えた。
私はもうすこし辛抱して、と思って見ていると、父の農夫が籾をつめた俵に縄を掛けて、それを負《しょ》いながら家を指して運んで行く様子だ。今は三人の女が主に成って働いた。岡辺も暮れかかって来て、野面《のら》に居て働くものも無くなる。向うの田の中に居る夫婦者の姿もよく見えない程に成った。
光岳寺の暮鐘が響き渡った。浅間も次第に暮れ、紫色に夕映《ゆうばえ》した山々は何時しか暗い鉛色と成って、唯《ただ》白い煙のみが暗紫色の空に望まれた。急に野面《のら》がパッと明るく成ったかと思うと、復た響き渡る鐘の音を聞いた。私の側には、青々とした菜を負《しょ》って帰って行く子供もあり、男とも女とも後姿の分らないようなのが足速《あしばや》に岡の道を下って行くもあり、そうかと思うと、上着《うわっぱり》のまま細帯も締めないで、まるで帯とけひろげのように見える荒くれた女が野獣《けもの》のように走って行くのもあった。
南の空には青光りのある星一つあらわれた。すこし離れて、また一つあらわれた。この二つの星の姿が紫色な暮の空にちらちらと光りを見せた。西の空はと見ると、山の端《は》は黄色に光り、急に焦茶色と変り、沈んだ日の反射も最後の輝きを野面《のら》に投げた。働いている三人の女の頬冠り、曲《こご》めた腰、皆な一時に光った。男の子の鼻の先まで光った。最早稲田も灰色、野も暗い灰色に包まれ、八幡の杜《もり》のこんもりとした欅《けやき》の梢《こずえ》も暗い茶褐色に隠れて了《しま》った。
町の彼方《かなた》にはチラチラ燈火《あかり》が点《つ》き始めた。岡つづきの山の裾にも点いた。
父の農夫は引返して来て復た一俵|負《しょ》って行った。三人の女や男の子は急ぎ働いた。
「暗くなって、いけねえナア」と母の子をいたわる声がした。
「箒《ほうき》探しな――箒――」
と復た母に言われて、子はうろうろと田の中を探し歩いた。
やがて母は箒で籾を掃き寄せ、筵《むしろ》を揚げて取り集めなどする。女達が是方《こっち》を向いた顔もハッキリとは分らないほどで、冠っている手拭の色と顔とが同じほどの暗さに見えた。
向うの田に居る夫婦者も、まだ働くと見えて、灰色な稲田の中に暗く動くさまが、それとなく分る。
汽笛が寂しく響いて聞えた。風は遽然《にわかに》私の身にしみて来た。
「待ちろ待ちろ」
母の声がする。男の子はその側で、姉らしい女と共に籾を打った。彼方《かなた》の岡の道を帰る人も暗く見えた。「おつかれでごわす」と挨拶そこそこに急いで通過ぎるものもあった。そのうちに、三人の女の働くさまもよくは見えない位に成って、冠った手拭のみが仄《ほの》かに白く残った。振り上ぐる槌までも暗かった。
「藁をまつめろ」
という声もその中で聞える。
私がこの岡を離れようとした頃、
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