私は往来に繋《つな》いである馬の鳴声なぞを聞きながら、そこで凍えた身体を温める。荒くれた人達の話や笑声に耳を傾ける。次第に心易くなってみれば、亭主が一ぜんめしの看板を張替えたからと言って、それを書くことなぞまで頼まれたりする。
松林の奥
夷講《えびすこう》の翌日、同僚の歴史科の教師W君に誘われて、山あるきに出掛けた。W君は東京の学校出で、若い、元気の好い、書生肌の人だから、山野を跋渉《ばっしょう》するには面白い道連だ。
小諸の町はずれに近い、与良町《よらまち》のある家の門で、
「煮《た》いて貰うのだから、お米を一升も持っておいでなんしょ。柿も持っておいでなんすか――」
こう言ってくれる言葉を聞捨てて、私達は頭陀袋《ずだぶくろ》に米を入れ、毛布《ケット》を肩に掛け、股引《ももひき》尻端折という面白い風をして、洋傘《こうもり》を杖につき、それに牛肉を提げて出掛けた。
出発は約束の時より一時間ばかり遅れた。八幡の杜《もり》を離れたのが、午後の四時半だった。日の暮れないうちにと、岡つづきの細道を辿《たど》って、浅間の方をさして上った。ある松林に行き着く頃は、夕月が銀色に光って来て、既に暮色の迫るのを感じた。西の山々のかなたには、日も隠れた。私達は後方《うしろ》を振返り振返りして急いで行った。
静かな松林の中にある一筋の細道――それを分けて上ると、浅間の山々が暗い紫色に見えるばかり、松葉の落ち敷いた土を踏んで行っても足音もしなかった。林の中を泄《も》れて射し入る残りの光が私達の眼に映った。西の空には僅《わず》かに黄色が残っていた。鳥の声一つ聞えなかった。
そのうちに、一つの松林を通越して、また他の松林の中へ入った。その時は、西の空は全く暗かった。月の光はこんもりとした木立の間から射し入って、林に満ちた夕靄《ゆうもや》は煙《けぶ》るようであった。細長い幹と幹との並び立つさまは、この夕靄の灰色な中にも見えた。遠い方は暗く、木立も黒く、何となく深く静かに物寂《ものさみ》しい。
宵の月は半輪《はんりん》で、冴《さ》えてはいたが、光は薄かった。私達が辿《たど》って行く道は松かげに成って暗かった。けれども一筋黒く眼にあって、松葉の散り敷いたところは殊に区別することが出来た。そこまで行くと、最早《もう》人里は遠く、小諸の方は隠れて見えなかった。時々私達は林の中にたたずんで、何の物音とも知れない極く幽《かす》かな響に耳を立てたり、暗い奥の方を窺《うかが》うようにして眺《なが》め入ったりした。先に進んで行くW君の姿も薄暗く此方《こちら》を向いてもよく顔が分らない程の光を辿って、猶《なお》奥深く進んだ。すべての物は暗い夜の色に包まれた。それが靄の中に沈み入って、力のない月の光に、朦朧《もうろう》と影のように見えた。ある時は、芝の上に腰掛けて、肩に掛けた物を卸し、足を投出して、しばらく休んで行った。私は既に非常な疲労を覚えた。というは、腹具合が悪くて、飯を一度食わなかったから。で、W君と一緒に休む時には、そこへ倒れるように身を投げた。やがて復た洋傘《こうもり》に力を入れて、起《た》ち上った。
いくつか松林を越えて、広々としたところへ出た。私達二人の影は地に映って見えた。月の光は明るくなったり暗くなったりした。そのうちに私達は大きな黒いものを見つけた。七ひろ石だ。
「もう余程来ましたかねえ。どうも非常に疲れた。足が前《さき》へ出なくなった」
「私も夜道はしましたが、こんなに弱ったことはありません」
「ここで一つ休もうじゃありませんか」
「弱いナア。ああああ」
こう言合って、勇気を鼓して進もうとすると、疲れた足の指先は石に蹉《つまず》いて痛い。復たぐったりと倒れるように、草の上へ横に成って休んだ。そこは浅間の中腹にある大傾斜のところで、あたりは茫漠《ぼうばく》とした荒れた原のように見えた。越えて来た松林は暗い雲のようで、ところどころに黒い影のような大石が夜色に包まれて眼に入るばかりだ。月の光も薄くこの山の端《は》に満ちた。空の彼方《かなた》には青い星の光が三つばかり冴えて見えた。灰白い夜の雲も望まれた。
深山の燈影
赤々と障子に映る燈火《ともしび》を見た時の私達の喜びは譬《たと》えようもなかった。私達は漸《ようや》くのことで清水《しみず》の山小屋に辿り着いた。
小屋の番人はまだ月明りの中で何か取片付けて働いている様子であった。私達は小屋へ入って、疲れた足を洗い、脚絆《きゃはん》のままで炉辺《ろばた》に寛《くつろ》いだ。W君は毛布を身に纏《まと》いながら、
「本家の小母さんが、お竹さんにどうか明日《あす》は大根洗いに降りて来て下さいッて――それにKさんの結納《ゆいのう》が来ましたから、小母さんも見せたいからッて。そ
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