り》は、この地方での最も忘れ難い、最も心地の好い時の一つである。俗に「小六月《ころくがつ》」とはその楽しさを言い顕した言葉だ。で、私はいくらかこの話を引戻して、もう一度十一月の上旬に立返って、そういう日あたりの中で農夫等が野に出て働いている方へ君の想像を誘おう。
小春の岡辺《おかべ》
風のすくない、雲の無い、温暖《あたたか》な日に屋外《そと》へ出て見ると、日光は眼眩《まぶ》しいほどギラギラ輝いて、静かに眺《なが》めることも出来ない位だが、それで居ながら日蔭へ寄れば矢張寒い――蔭は寒く、光はなつかしい――この暖かさと寒さとの混じ合ったのが、楽しい小春日和だ。
そういう日のある午後、私は小諸《こもろ》の町裏にある赤坂の田圃《たんぼ》中へ出た。その辺は勾配《こうばい》のついた岡つづきで、田と田の境は例の石垣に成っている。私は枯々とした草土手に身を持たせ掛けて、眺め入った。
手廻しの好い農夫は既に収穫を終った頃だ。近いところの田には、高い土手のように稲を積み重ね、穂をこき落した藁《わら》はその辺に置き並べてあった。二人の丸髷《まるまげ》に結った女が一人の農夫を相手にして立ち働いていた。男は雇われたものと見え、鳥打帽に青い筒袖《つつっぽ》という小作人らしい風体《ふうてい》で、女の機嫌《きげん》を取り取り籾《もみ》の俵を造っていた。そのあたりの田の面《も》には、この一家族の外に、野に出て働いているものも見えなかった。
古い釜形帽《かまがたぼう》を冠って、黄菊一株提げた男が、その田圃道を通りかかった。
「まあ、一服お吸い」
と呼び留められて、釜形帽と鳥打帽と一緒に、石垣に倚《よ》りながら煙草を燻《ふか》し始めた。女二人は話し話し働いた。
「金さん、お目はどうです――それは結構――ああ、ああ、そうとも――」などと女の語る声が聞えた。私は屋外に日を送ることの多い人達の生活を思って、聞くともなしに耳を傾けた。振返って見ると、一方の畦《あぜ》の上には菅笠《すげがさ》、下駄、弁当の包らしい物なぞが置いてあって、そこで男の燻す煙草の煙が日の光に青く見えた。
「さいなら、それじゃお静かに」
と一方の釜形帽はやがて別れて行った。
鳥打帽は鍬《くわ》を執って田の土をすこしナラし始めた。女二人が錯々《せっせ》と籾《もみ》を振《ふる》ったり、稲こきしたりしているに引替え、この雇われた男の方ははかばかしく仕事もしないという風で、すこし働いたかと思うと、直《すぐ》に鍬を杖にして、是方《こっち》を眺めてはボンヤリと立っていた。
岡辺は光の海であった。黒ずんだ土、不規則な石垣、枯々な桑の枝、畦の草、田の面に乾した新しい藁、それから遠くの方に見える森の梢《こずえ》まで、小春の光の充《み》ち溢《あふ》れていないところは無かった。
私の眼界にはよく働く男が二人までも入って来た。一人は近くにある田の中で、大きな鍬に力を入れて、土を起し始めた。今一人はいかにも背の高い、痩《や》せた、年若な農夫だ。高い石垣の上の方で、枯草の茶色に見えるところに半身を顕《あらわ》して、モミを打ち始めた。遠くて、その男の姿が隠れる時でも、上ったり下ったりする槌《つち》だけは見えた。そして、その槌の音が遠い砧《きぬた》の音のように聞えた。
午後の三時過まで、その日私は赤坂裏の田圃道を歩き廻った。
そのうちに、畠側《はたけわき》の柿や雑木に雀の群のかしましいほど鳴き騒いでいるところへ出た。刈取られた田の面には、最早青い麦の芽が二寸ほども延びていた。
急に私の背後《うしろ》から下駄の音がして来たかと思うと、ぱったり立止って、向うの石垣の上の方に向いて呼び掛ける子供の声がした。見ると、茶色に成った桑畠を隔てて、親子二人が収穫《とりいれ》を急いでいた。子供はお茶の入ったことを知らせに来たのだ。信州人ほど茶好な人達も少なかろうと思うが、その子供が復た馳出《かけだ》して行った後でも、親子は時を惜むという風で、母の方は稲穂をこき落すに余念なく、子息《むすこ》はその籾を叩《たた》く方に廻ってすこしも手を休めなかった。遠く離れてはいたが、手拭を冠った母の身《からだ》を延べつ縮めつするさまも、子息のシャツ一枚に成って後ろ向に働いているさまも、よく見えた。
子供にあんなことを言われると、私も咽喉《のど》が乾いて来た。
家へ帰って濃い熱い茶に有付きたいと思いながら、元来た道を引返そうとした。斜めに射して来た日光は黄を帯びて、何となく遠近《おちこち》の眺望《ながめ》が改まった。岡の向うの方には数十羽の雀が飛び集ったかと思うと、やがてまたパッと散り隠れた。
農夫の生活
君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう。私の話の中には、幾度《いくたび》か農家
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