南の裾に住む山梨の農夫ばかりは、冬季の秣《まぐさ》に乏しいので、遠く爰《ここ》まで馬を引いて来て、草を刈集めておりました……」
これは主に旧道から見た光景《さま》だ。趣の深いのも旧道だ。
以前私は新道の方をも取って、帰り路《みち》に原の中を通ったこともある。その時は農夫の男女が秣を満載した馬を引いて山梨の方へ帰って行くのに逢った。彼等は弁当を食いながら歩いていた。聞いてみると往復十六里の道を歩いて、その間に秣を刈集めなければ成らない。朝暗いうちに山梨を出ても、休んで弁当を食っている暇が無いという。馬を引いて歩きながらの弁当――実に忙《せわ》しい生活の光景《さま》だと思った。
こんな話を私は同行のT君にしながら、旧道を取って歩いて行った。三軒家という小さな村を離れてからは人家を見ない。
この高原が牧場に適するのは、秣が多いからとのことだ。今は馬匹《ばひつ》を見ることも少いが、丘陵の起伏した間には、遊び廻っている馬の群も遠く見える。
白樺《しらかんば》の下葉は最早落ちていた。枯葉や草のそよぐ音――殊に槲《かしわ》の葉の鳴る音を聞くと、風の寒い、日の熱い高原の上を旅することを思わせる。
「まぐそ鷹《たか》」というが八つが岳の方の空に飛んでいるのも見た。私達はところどころにある茶色な楢《なら》の木立をも見て通った。それが遠い灰色の雲なぞを背景《バック》にして立つさまは、何んとなく茫漠《ぼうばく》とした感じを与える。原にある一筋の細い道の傍には、紫色に咲いた花もあった。T君に聞くと、それは松虫草とか言った。この辺は古い戦場の跡ででもあって、往昔《おうせき》海の口の城主が甲州の武士と戦って、戦死したと言伝えられる場所もある。
甲州境に近いところで、私達は人の背ほどの高さの小梨《こなし》を見つけた。葉は落ち尽して、小さな赤い実が残っていた。草を踏んで行ってその実を採って見ると、まだ渋い。中には霜に打たれて、口へ入れると溶けるような味のするもあった。間もなく私達は甲州の方に向いた八つが岳の側面が望まれるところへ出た。私達は樹木の少い大傾斜、深い谷々なぞを眼の下にして立った。
「富士!」
と学生は互に呼びかわして、そこから高い峻《けわ》しい坂道を甲州の方へ下りた。
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その七
落葉《らくよう》の一
毎年十月の二十日といえば、初霜を見る。雑木林や平坦《たいら》な耕地の多い武蔵野《むさしの》へ来る冬、浅々とした感じの好い都会の霜、そういうものを見慣れている君に、この山の上の霜をお目に掛けたい。ここの桑畠《くわばたけ》へ三度《みたび》や四度もあの霜が来て見給え、桑の葉は忽《たちま》ち縮み上って焼け焦げたように成る、畠の土はボロボロに爛《ただ》れて了《しま》う……見ても可恐《おそろ》しい。猛烈な冬の威力を示すものは、あの霜だ。そこへ行くと、雪の方はまだしも感じが柔かい。降り積る雪はむしろ平和な感じを抱《いだ》かせる。
十月末のある朝のことであった。私は家の裏口へ出て、深い秋雨のために色づいた柿の葉が面白いように地へ下《くだ》るのを見た。肉の厚い柿の葉は霜のために焼け損《そこな》われたり、縮れたりはしないが、朝日があたって来て霜のゆるむ頃には、重さに堪《た》えないで脆《もろ》く落ちる。しばらく私はそこに立って、茫然《ぼうぜん》と眺《なが》めていた位だ。そして、その朝は殊《こと》に烈《はげ》しい霜の来たことを思った。
落葉の二
十一月に入って急に寒さを増した。天長節の朝、起出して見ると、一面に霜が来ていて、桑畠も野菜畠も家々の屋根も皆な白く見渡される。裏口の柿の葉は一時に落ちて、道も埋れるばかりであった。すこしも風は無い。それでいて一|葉《は》二葉ずつ静かに地へ下る。屋根の上の方で鳴く雀《すずめ》も、いつもよりは高くいさましそうに聞えた。
空はドンヨリとして、霧のために全く灰色に見えるような日だった。私は勝手元の焚火《たきび》に凍えた両手をかざしたく成った。足袋《たび》を穿《は》いた爪先も寒くしみて、いかにも可恐《おそろ》しい冬の近よって来ることを感じた。この山の上に住むものは、十一月から翌年の三月まで、殆《ほと》んど五ヶ月の冬を過さねば成らぬ。その長い冬籠《ふゆごも》りの用意をせねば成らぬ。
落葉の三
木枯が吹いて来た。
十一月中旬のことであった。ある朝、私は潮の押寄せて来るような音に驚かされて、眼が覚めた。空を通る風の音だ。時々それが沈まったかと思うと、急に復《ま》た吹きつける。戸も鳴れば障子も鳴る。殊に南向の障子にはバラバラと木の葉のあたる音がしてその間には千曲川の河音も平素《ふだん》から見るとずっと近く聞えた。
障子を開けると、木の葉は部屋の内までも舞込んで
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