まで合せて三百余頭の馬匹《ばひつ》が列をつくって通過したのも、この原へ通う道だった。馬市の立つというあたりに作られた御|仮屋《かりや》、紫と白との幕、あちこちに巣をかけた商人《あきんど》、四千人余の群集、そんなものがゴチャゴチャ胸に浮んで来た。あの時は、私は仕立屋と連立って、秋の日のあたった原の一部を歩き廻ったが、今でも私の眼についているのは長野の方から知事に随《つ》いて来た背の高い参事官だ。白いしなやかな手を振って、柔かな靴音をさせる紳士だった。それで居て動作には敏捷《びんしょう》なところもあった。丁度あの頃私はトルストイの「アンナ・カレニナ」を読んでいたから、私は自分で想像したヴロンスキイの型《タイプ》をその参事官に当嵌《あてはめ》てみたりなぞした。あの紳士が肩に掛けた双眼鏡を取出して、八つが岳の方に見える牧場を遠く望んでいた様子は――失礼ながら――私の思うヴロンスキイそのままだった。
 あの時の混雑に比べると、今度は原の上も寂しい。最早霜が来るらしい雑草の葉のあるいは黄に、あるいは焦茶色に成ったのを踏んで、ポツンポツンと立っている白樺《しらかんば》の幹に朝日の映《あた》るさまなぞを眺《なが》めながら、私達は板橋村という方へ進んで行った。この高原の広さは五里四方もある、荒涼とした原の中には、蕎麦《そば》なぞを蒔《ま》いたところもあって、それを耕す人達がところどころに僅《わず》かな村落を形造っている。板橋村はその一番|取付《とっつき》にある村だ。
 以前、私はこの辺のことを、こんな風に話の中に書いた。
「晴れて行く高原の霧の眺めは、どんなに美しいものでしょう。すこし裾《すそ》の見えた八つが岳が次第に険《けわ》しい山骨を顕《あら》わして来て、終《しまい》に紅色の光を帯びた巓《いただき》まで見られる頃は、影が山から山へ映《さ》しておりました。甲州に跨《またが》る山脈の色は幾度《いくたび》変ったか知れません。今、紫がかった黄。今、灰がかった黄。急に日があたって、夫婦の行く道を照し始める。見上げれば、ちぎれちぎれの綿のような雲も浮んで、いつの間にか青空に成りました。ああ朝です。
 男山《おとこやま》、金峯山《きんぶざん》、女山《おんなやま》、甲武信岳《こぶしがたけ》、などの山々も残りなく顕れました。遠くその間を流れるのが千曲川の源、かすかに見えるのが川上の村落です。千曲川は朝日をうけて白く光りました――」
 夫婦とあるは、私がその話の中に書こうとした人物だ。一時は私もこうした文体を好んで書いたものだ。
「筒袖《つつそで》の半天に、股引《ももひき》、草鞋穿《わらじばき》で、頬冠《ほおかぶ》りした農夫は、幾群か夫婦の側を通る。鍬《くわ》を肩に掛けた男もあり、肥桶《こえおけ》を担《かつ》いで腰を捻《ひね》って行く男もあり、爺《おやじ》の煙草入を腰にぶらさげながら随いて行く児もありました。気候、雑草、荒廃、瘠土《せきど》などを相手に、秋の一日の烈《はげ》しい労働が今は最早始まるのでした。
 既に働いている農夫もありました。黒々とした「ノッペイ」の畠の側を進んでまいりますと、一人の荒くれ男が汗雫《あせみずく》に成って、傍目《わきめ》をふらずに畠を打っておりました。大きな鍬を打込んで、身《からだ》を横にして仆《たお》れるばかりに土の塊《かたまり》を起す。気の遠くなるような黒土の臭気《におい》は紛《ぷん》として、鼻を衝《つ》くのでした……板橋村を離れて、旅人の群にも逢いました。
 高原の秋は今です。見渡せば木立もところどころ。枝という枝は南向に生延びて、冬季に吹く風の勁《つよ》さも思いやられる。白樺は多く落葉して高く空に突立ち、細葉の楊樹《やなぎ》は踞《うずくま》るように低く隠れている。秋の光を送る風が騒しく吹渡ると、草は黄な波を打って、動き靡《なび》いて、柏の葉もうらがえりました。
 ここかしこに見える大石には秋の日があたって、寂しい思をさせるのでした。
「ありしおで」の葉を垂れ、弘法菜《こうぼうな》の花をもつのは爰《ここ》です。
「かしばみ」の実の落ちこぼれるのも爰《ここ》です。
 爰《ここ》には又、野の鳥も住み隠れました。笹の葉蔭に巣をつくる雲雀《ひばり》は、老いて春先ほどの勢も無い。鶉《うずら》は人の通る物音に驚いて、時々草の中から飛立つ。見れば不格好《ぶかっこう》な短い羽をひろげて、舞揚《まいあが》ろうとしてやがて、パッタリ落ちるように草の中へ引隠れるのでした。
 外《ほか》の樹木の黄に枯々とした中に、まだ緑勝《みどりがち》な蔭をとどめたところも有る。それは水の流を旅人に教えるので、そこには雑木が生茂って、泉に添うて枝を垂れて、深く根を浸しているのです。
 今は村々の農夫も秋の労働に追われて、この高原に馬を放すものも少い。八つが岳山脈の
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