な谿流《けいりゅう》に近い。この谿流に面した休茶屋には甲州屋としたところもあって、そこまで行くと何となく甲州に近づいた気がする。山を越して入込んで来るという甲州|商人《あきんど》の往来するのも見られる。
馬流の近くで、学生のTが私達の一行に加わった。Tの家は宮司《ぐうじ》で、街道からすこし離れた幽邃《ゆうすい》な松原湖の畔《ほとり》にある。Tは私達を待受けていたのだ。
白楊《どろ》、蘆《あし》、楓《かえで》、漆《うるし》、樺《かば》、楢《なら》などの類が、私達の歩いて行く河岸に生《お》い茂っていた。両岸には、南牧《みなみまき》、北牧、相木《あいぎ》などの村々を数えることが出来た。水に近く設けた小さな水車小屋も到るところに見られた。八つが岳の山つづきにある赤々とした大崩壊《おおくずれ》の跡、金峯《きんぶ》、国師《こくし》、甲武信《こぶし》、三国《みくに》の山々、その高く聳《そび》えた頂、それから名も知られない山々の遠く近く重なり合った姿が、私達の眺望《ちょうぼう》の中に入った。
日が傾いて来た。次第に私達は谷深く入ったことを感じた。
時々私はT君と二人で立止って、川上から川下の方へ流れて行く水を見送った。その方角には、夕日が山から山へ反射して、深い秋らしい空気の中に遠く炭焼の烟《けむり》の立登るのも見えた。
この谷の尽きたところに海《うみ》の口《くち》村がある。何となく川の音も耳について来た。暮れてから、私達はその村へ入った。
山村の一夜
この山国の話の中に、私はこんなことを書いたことが有った。
「清仏《しんふつ》戦争の後、仏蘭西《フランス》兵の用いた軍馬は吾《わが》陸軍省の手で買取られて、海を越して渡って来ました。その中の十三頭が種馬として信州へ移されたのです。気象雄健なアルゼリイ種の馬匹《ばひつ》が南佐久の奥へ入りましたのは、この時のことで。今日一口に雑種と称えているのは、専《おも》にこのアルゼリイ種を指したものです。その後|亜米利加《アメリカ》産の浅間号という名高い種馬も入込みました。それから次第に馬匹の改良が始まる、野辺山《のべやま》が原の馬市は一年増に盛んに成る、その噂《うわ》さが某《それがし》の宮殿下の御耳まで届くように成りました。殿下は陸軍騎兵附の大佐で、かくれもない馬好ですから、御|寵愛《ちょうあい》のファラリイスと云《いう》亜刺比亜《アラビア》産を種馬として南佐久へ御貸付になりますと、さあ人気が立ったの立たないのじゃ有りません。ファラリイスの血を分けた当歳が三十四頭という呼声に成りました。殿下の御|喜悦《よろこび》は何程《どんな》でしたろう。到頭野辺山が原へ行啓を仰せ出されたのです」
以前私が仕立屋に誘われて、一夜をこの八つが岳の麓《ふもと》の村で送ったのは、丁度その行啓のあるという時だった。
静かな山村の夜――河水の氾濫《はんらん》を避けてこの高原の裾へ移住したという家々――風雪を防ぐ為の木曾路なぞに見られるような石を載せた板屋根――岡の上にもあり谷の底にもある灯《ともしび》――鄙《ひな》びた旅舎《やどや》の二階から、薄明るい星の光と夜の空気とを通して、私は曾遊《そうゆう》の地をもう一度見ることが出来た。
ここは一頭や二頭の馬を飼わない家は無い程の産馬地《うまどころ》だ。馬が土地の人の主なる財産だ。娘が一人で馬に乗って、暗い夜道を平気で通る程の、荒い質朴な人達が住むところだ。
風呂桶《ふろおけ》が下水の溜《ため》の上に設けてあるということは――いかにこの辺の人達が骨の折れる生活を営むとはいえ――又、それほど生活を簡易にする必要があるとはいえ――来て見る度《たび》に私を驚かす。ここから更に千曲川の上流に当って、川上の八カ村というのがある。その辺は信州の中でも最も不便な、白米は唯病人に頂かせるほどの、貧しい、荒れた山奥の一つであるという。
私達が着いたと聞いて、仕立屋の親類に成る人が提灯《ちょうちん》つけて旅舎《やどや》へ訪ねて来た。ここから小諸へ出て、長いこと私達の校長の家に奉公していた娘があった。
その娘も今では養子して、子供まであるとか。こういう山村に連関して、下女奉公する人達の一生なぞも何となく私の心を引いた。
君はまだ「ハリコシ」なぞという物を食ったことがあるまい。恐らく名前も聞いたことがあるまい。熱い灰の中で焼いた蕎麦餅《そばもち》だ。草鞋穿《わらじばき》で焚火《たきび》に温《あた》りながら、その「ハリコシ」を食い食い話すというが、この辺での炉辺《ろばた》の楽しい光景《ありさま》なのだ。
高原の上
翌朝私達は野辺山が原へ上った。私の胸には種々な記憶が浮び揚《あが》って来た。ファラリイスの駒《こま》三十四頭、牝馬《めうま》二百四十頭、牡馬《おうま》
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