は別に鶏と茄子《なす》の露、南瓜《とうなす》の煮付を馳走振《ちそうぶり》に勧めてくれた。いずれも大鍋《おおなべ》にウンとあった。私達は各自《めいめい》手盛でやった。学生は握飯、パンなぞを取出す。体操の教師はまた、好きな酒を用意して来ることを忘れなかった。
 この山の中で林檎《りんご》を試植したら、地梨《じなし》の虫が上って花の蜜《みつ》を吸う為に、実らずに了った。これは細君が私達の食事する側へ来ての話だった。赤犬は廻って来て、生徒が投げてやる鳥の骨をシャブった。
 食後に、私達は主人に案内されて、黒い土の色の畠の方まで見て廻った。主人の話によると、松林の向うには三千坪ほどの桑畠もあり、畠はその三倍もあって大凡《おおよそ》一万坪の広い地面だけあるが、自分の代となってからは家族も少《すくな》し、手も届きかねて、荒れたままに成っているところも有る、とのことだ。
 私達が訪ねて来たことは、余程主人の心を悦ばせたらしい。主人はむッつりとした鬚のある顔に似合わず種々な話をした。蕎麦《そば》は十俵の収穫があるとか、試植した銀杏《いちょう》、杉、竹などは大半枯れ消えたとか、栗も十三俵ほど播《ま》いてみたが、十四度も山火事に逢ううちに残ったのは既に五六間の高さに成ってよく実りはするけれども、樹の数は焼けて少いとか話した。
 落葉松《からまつ》の畠も見えた。その苗は草のように嫩《やわら》かで、日をうけて美しくかがやいていた。畠の周囲《まわり》には地梨も多い。黄に熟したやつは草の中に隠れていても、直ぐと私達の眼についた。尤《もっと》も、あの実は私達にはめずらしくも無かったが。
 主人は又、山火事の恐しいことや、火に追われて死んだ人のことを話した。これから一里ばかり上ったところに、炭焼小屋があって、今は椚《くぬぎ》の木炭を焼いているという話もした。
 この山番のある尾の石は、高峰と称える場所の一部とか。尾の石から菱野《ひしの》の湯までは十町ばかりで、毎日入湯に通うことも出来るという。菱野と聞いて、私は以前家へ子守に来ていた娘のことを思出した。あの田舎娘《いなかむすめ》の村は菱野だから。
 土地案内を知った体操教師の御蔭で、めずらしいところを見た。こうした山の中は、めったに私なぞの来られる場所では無い。一度私は歴史の教師と連立ってここよりもっと高い位置にある番小屋に泊ったことも有る。
 彼処《あそこ》はまだ開墾したばかりで、ここほど林が深くなかった。
 別れを告げて尾の石を離れる前に、もう一度私達は番小屋の見える方を振返った。白樺《しらかんば》なぞの混った木立の中に、小屋へ通う細い坂道、岡の上の樹木、それから小屋の屋根なぞが見えた。
 白樺の幹は何処《どこ》の林にあっても眼につくやつだが、あの山桜を丸くしたような葉の中には最早《もう》美しく黄ばんだのも混っていた。
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   その六


     秋の修学旅行

 十月のはじめ、私は植物の教師T君と一緒に学生を引連れて、千曲川の上流を指して出掛けた。秋の日和《ひより》で楽しい旅を続けることが出来た。この修学旅行には、八つが岳の裾《すそ》から甲州へ下り、甲府へ出、それから諏訪《すわ》へ廻って、そこで私達を待受けていた理学士、水彩画家B君、その他の同僚とも一緒に成って、和田の方から小諸《こもろ》へ戻って来た。この旅には殆《ほと》んど一週間を費した。私達は蓼科《たでしな》、八つが岳の長い山脈について、あの周囲を大きく一廻りしたのだ。
 その中でも、千曲川の上流から野辺山《のべやま》が原へかけては一度私が遊びに行ったことのあるところだ。その時は近所の仕立屋の亭主と一緒だった。この旅で、私は以前の記憶を新しくした。その話を君にしようと思う。

     甲州街道

 小諸から岩村田町へ出ると、あれから南に続く甲州街道は割合に平坦な、広々とした谷を貫いている。黄ばんだ、秋らしい南佐久の領分が私達の眼前《めのまえ》に展《ひら》けて来る。千曲川はこの田畠の多い谷間《たにあい》を流れている。
 一体、犀川《さいかわ》に合するまでの千曲川は、殆《ほと》んど船の影を見ない。唯《ただ》、流れるままに任せてある。この一事だけで、君はあの川の性質と光景とを想像することが出来よう。
 私は、佐久、小県《ちいさがた》の高い傾斜から主に谷底の方に下瞰《みおろ》した千曲川をのみ君に語っていた。今、私達が歩いて行く地勢は、それと趣を異にした河域だ。臼田《うすだ》、野沢の町々を通って、私達は直ぐ河の流に近いところへ出た。
 馬流《まながし》というところまで岸に添うて遡《さかのぼ》ると河の勢も確かに一変して見える。その辺には、川上から押流されて来た恐しく大きな石が埋まっている。その間を流れる千曲川は大河というよりも寧《むし》ろ大き
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