だ松林の方は曇って空もよく見えなかった。快晴の日は、富士の山巓《さんてん》も望まれるという。池の辺《ほとり》に咲乱れた花あやめは楽しい感じを与えた。仕立屋は庭の高麗檜葉《こうらいひば》を指して見せて、特に東京から取寄せたものであると言ったが、あまり私の心を惹《ひ》かなかった。
私達は眺望《ちょうぼう》のある二階の部屋へ案内された。田舎縞《いなかじま》の手織物を着て紺の前垂を掛けた、髪も質素に短く刈ったのが、主人であった。この人は一切の主権を握る相続者ではないとのことであったが、しかし堅気な大店《おおだな》の主人らしく見えた。でっぷり肥った番頭も傍《かたわら》へ来た。池の鯉《こい》の塩焼で、主人は私達に酒を勧めた。階下《した》には五六人の小僧が居て、料理方もあれば、通いをするものもあった。
一寸したことにも、質素で厳格な大店の家風は表れていた。番頭は、私達の前にある冷豆腐《ひややっこ》の皿にのみ花鰹節《はながつお》が入って、主人と自分のにはそれが無いのを見て、「こりゃ醤油《しょうゆ》ばかしじゃいけねえ。オイ、鰹節《おかか》をすこしかいて来ておくれ」
と楼梯《はしごだん》のところから階下《した》を覗《のぞ》いて、小僧に吩咐《いいつ》けた。間もなく小僧はウンと大きく削った花鰹節を二皿持って上って来た。
やがて番頭は階下から将棋の盤を運んだ。それを仕立屋の前に置いた。二枚落しでいこうと番頭が言った。仕立屋は二十年以来ぱったり止めているが、万更でも無いからそれじゃ一つやるか、などと笑った。主人も好きな道と見えて、覗き込んで、仕立屋はなかなか質《たち》が好いようだとか、そこに好い手があるとか、しきりと加勢をしたが、そのうちに客の敗と成った。番頭は盃《さかずき》を啣《ふく》んで、「さあ誰でも来い」という顔付をした。「お貸しなさい、敵打《かたきうち》だ」と主人は飛んで出て、番頭を相手に差し始める。どうやら主人の手も悪く成りかけた。番頭はぴッしゃり自分の頭を叩《たた》いて、「恐れ入ったかな」と舌打した。到頭主人の敗と成った。復た二番目が始まった。
階下では、大きな巾着《きんちゃく》を腰に着けた男の児が、黒い洋犬と戯れていたが、急に家の方へ帰ると駄々をコネ始めた。小僧がもてあましているので、仕立屋も見兼ねて、子供の機嫌《きげん》を取りに階下へ降りた。その時、私も庭を歩いて見た。小手毬《こでまり》の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍《おど》るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
番頭は鼻の先へ握り拳《こぶし》を重ねて、大天狗《だいてんぐ》をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘《あいあいがさ》というやつはナカナカ意気なものですから」
と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復《ま》た小僧が追いかけて来た。
毒消売の女
「毒消は宜《よ》う御座んすかねえ」
家々の門《かど》に立って、鋭い越後訛《えちごなまり》で呼ぶ女の声を聞くように成った。
黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷《ふろしき》、日をうけて光る笠、あだかも燕《つばめ》が同じような勢揃《せいぞろ》いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方《かなた》、此方《こなた》の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気|壮《さか》んなところまで互によく似ている。
銀馬鹿
「何処《どこ》の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
貧しい町を通って、黒い髭《ひげ》の生えた飴屋《あめや》に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛《とうじんぶえ》を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還《ゆきかえり》によく通るところだ。岩石の多い桑畠《くわばたけ》の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳《ひ》いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠《ほふ》った豚の股《もも》が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他《ひと》に占領されてそれを知らずに働いている
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