ともいう。

     祭の前夜

 春蚕《はるこ》が済む頃は、やがて土地では、祇園祭《ぎおんまつり》の季節を迎える。この町で養蚕をしない家は、指折るほどしか無い。寺院《おてら》の僧侶《ぼうさん》すらそれを一年の主なる収入に数える。私の家では一度も飼ったことが無いが、それが不思議に聞える位だ。こういう土地だから、暗い蚕棚《かいこだな》と、襲うような臭気と、蚕の睡眠《ねむり》と、桑の出来不出来と、ある時は殆《ほと》んど徹夜で働いている男や女のことを想ってみて貰《もら》わなければ、それから後に来る祇園祭の楽しさを君に伝えることが出来ない。
 秤を腰に差して麻袋を負《しょ》ったような人達は、諏訪《すわ》、松本あたりからこの町へ入込んで来る。旅舎《やどや》は一時|繭買《まゆかい》の群で満たされる。そういう手合が、思い思いの旅舎を指して繭の収穫を運んで行く光景《さま》も、何となく町々に活気を添えるのである。
 二十日ばかりもジメジメと降り続いた天気が、七月の十二日に成って漸《ようや》く晴れた。霖雨《ながあめ》の後の日光は殊《こと》にきらめいた。長いこと煙霧に隠れて見えなかった遠い山々まで、桔梗《ききょう》色に顕《あら》われた。この日は町の大人から子供まで互に新しい晴衣を用意して待っていた日だ。
 私は町の団体の暗闘に就《つ》いて多少聞いたこともあるが、そんなことをここで君に話そうとは思わない。ただ、祭以前に紛擾《ごたごた》を重ねたと言うだけにして置こう。一時は祭をさせるとか、させないとかの騒ぎが伝えられて、毎年月の始めにアーチ風に作られる〆飾《しめかざ》りが漸く七日目に町々の空へ掛った。その余波として、御輿《みこし》を担《かつ》ぎ込まれるが煩《うるさ》さに移転したと言われる家すらあった。そういう騒ぎの持上るというだけでも、いかにこの祭の町の人から待受けられているかが分る。多くの商人は殊に祭の賑《にぎわ》いを期待する。養蚕から得た報酬がすくなくもこの時には費されるのであるから。
 夜に入って、「湯立《ゆだて》」という儀式があった。この晩は主な町の人々が提灯《ちょうちん》つけて社《やしろ》の方へ集る。それを見ようとして、私も家を出た。空には星も輝いた。社頭で飴菓子《あめがし》を売っている人に逢った。謡曲で一家を成した人物だとのことだが、最早長いことこの田舎に隠れている。
 本町の通には紅白の提灯が往来《ゆきき》の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋《はとや》のI、紙店《かみみせ》のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。

     十三日の祇園《ぎおん》

 十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休《やす》まないでは毎時《いつでも》論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽《たる》を持出し、毛布《ケット》をひろげ、その上に飲食《のみくい》する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人《こあきんど》はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋《やおや》夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀《かみさん》とが互に片肌抜《かたはだぬぎ》で、稲荷鮨《いなりずし》を漬《つ》けたり、海苔巻《のりまき》を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣《ひとえ》を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
 午後に、家のものはB姉妹の許《もと》へ招かれて御輿《みこし》の通るのを見に行った。Bは清少納言《せいしょうなごん》の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞《つ》くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾《あおすだれ》を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適《ふさ》わしい。
 祭を見に来た人達は鄙《ひな》びた絵巻物を繰展《くりひろ》げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬《とうちりめん》の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷《まげ》にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘《こうもりがさ》をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂《まえだれ》をして尻端《しりはし》を折った児もある。黒い、太い足に白足袋《しろたび》を穿《はい》て、裾《すそ》の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢|辺《あた》りの客と見えて、
前へ 次へ
全48ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング