だその外に、鶏を養《か》う人なぞも住んでいる。この人は病身で、無聊《ぶりょう》に苦むところから、私達の矢場の方へ遊びに来る。そして、私達の弓が揃って引絞られたり、矢の羽が頬を摺《す》ったりする後方《うしろ》に居て、奇警な批評を浴せかける。戯れに、
「どうです。先生、もう弓も飽いたから――貴様、この矢場で、鳥でも飼え、なんと来た日にゃあ、それこそ此方《こっち》のものだ……しかしこの弓は、永代《えいたい》続きそうだテ」こんなことを言って混返《まぜかえ》すので、折角入れた力が抜けて、弓もひけないものが有った。
小諸へ来て隠れた学士に取って、この緑蔭は更に奥の方の隠れ家のように見えた。愛蔵する鷹の羽の矢が揃って白い的の方へ走る間、学士はすべてを忘れるように見えた。
急に、熱い雨が落ちて来た。雷《らい》の音も聞えた。浅間は麓まで隠れて、灰色に煙るように見えた。いくつかの雲の群は風に送られて、私達の頭の上を山の方へと動いた。雨は通過ぎたかと思うと復《また》急に落ちて来た。「いよいよ本物かナ」と言って、学士は新しく自分で張った七寸|的《まと》を取除《とりはず》しに行った。
城址の桑畠には、雨に濡《ぬ》れながら働いている人々もあった。皆なで雲行を眺めていると、初夏らしい日の光が遽《にわ》かに青葉を通して射して来た。弓仲間は勇んで一手ずつ射はじめた。やがて復たザアと降って来た。到頭一同は断念して、茶屋の方へ引揚《ひきあ》げた。
私が学士と一緒に高い荒廃した石垣の下を帰って行く途中、東の空に深い色の虹《にじ》を見た。実に、学士はユックリユックリ歩いた。
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その三
山荘
浅間の方から落ちて来る細流は竹藪《たけやぶ》のところで二つに別れて、一つは水車小屋のある窪《くぼ》い浅い谷の方へ私の家の裏を横ぎり、一つは馬場裏の町について流れている。その流に添う家々は私の家の組合だ。私は馬場裏へ移ると直ぐその組合に入れられた。一体、この小諸の町には、平地というものが無い。すこし雨でも降ると、細い川まで砂を押流すくらいの地勢だ。私は本町へ買物に出るにも組合の家の横手からすこし勾配《こうばい》のある道を上らねばならぬ。
組合頭《くみあいがしら》は勤勉な仕立屋の亭主だ。この人が日頃出入する本町のある商家から、商売《あきない》も閑《ひま》な頃で店の人達は東沢の別荘へ休みに行っている、私を誘って仕立屋にも遊びに来ないか、とある日番頭が誘いに来たとのことであった。
私は君に古城の附近をすこし紹介した。町家の方の話はまだ為《し》なかった。仕立屋に誘われて商家の山荘を見に行った時のことを話そう。
君は地方にある小さい都会へ旅したことが有るだろう。そこで行き逢う人々の多くは
――近在から買物に来た男女だとか、旅人だとかで――案外町の人の少いのに気が着いたことが有るだろう。田舎の神経質はこんなところにも表れている。小諸がそうだ。裏町や、小路《こうじ》や、田圃側《たんぼわき》の細い道なぞを択《えら》んで、勝手を知った人々は多く往《い》ったり来たりする。
私は仕立屋と一緒に、町家の軒を並べた本町の通を一|瞥《べつ》して、丁度そういう田圃側の道へ出た。裏側から小諸の町の一部を見ると、白壁づくりの建物が土壁のものに混って、堅く石垣の上に築かれている。中には高い三層の窓が城郭のように曇日に映じている。その建物の感じは、表側から見た暗い質素な暖簾《のれん》と対照を成して土地の気質や殷富《とみ》を表している。
麦秋《むぎあき》だ。一年に二度ずつ黄色くなる野面《のら》が、私達の両側にあった。既に刈取られた麦畠も多かった。半道ばかり歩いて行く途中で、塩にした魚肉の薦包《こもづつみ》を提げた百姓とも一緒に成った。
仕立屋は百姓を顧みて、
「もうすっかり植付が済みましたかネ」
「はい、漸《ようや》く二三日前に。これでも昔は十日前に植付けたものでごわすが、近頃はずっと遅く成りました。日蔭に成る田にはあまり実入《みいり》も無かったものだが、この節では一ぱいに取れますよ」
「暖くなった故《せい》かナ」
「はい、それもありますが、昔と違って田の数がずっと殖えたものだから、田の水もウルミが多くなってねえ」
百姓は眺め眺め答えた。
東沢の山荘には商家の人達が集っていた。店の方には内儀《かみ》さん達と、二三の小僧とを残して置いて、皆なここへ遊びに来ているという。東京の下町に人となった君は――日本橋|天馬町《てんまちょう》の針問屋とか、浅草|猿屋町《さるやちょう》の隠宅とかは、君にも私に可懐《なつか》しい名だ――恐らく私が今どういう人達と一緒に成ったか、君の想像に上るであろうと思う。
山荘は二階建で、池を前にして、静かな沢の入口にあった。左に浅い谷を囲ん
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