》って出掛けた。学士の口からは、時々軽い仏蘭西《フランス》語なぞが流れて来る。それを聞く度《たび》に、私は学士の華やかな過去を思いやった。学士は又、そんな関わない風采《ふうさい》の中にも、何処《どこ》か往時《むかし》の瀟洒《しょうしゃ》なところを失わないような人である。その胸にはネキタイが面白く結ばれて、どうかすると見慣れない襟留《えりどめ》なぞが光ることがある。それを見ると、私は子供のように噴飯《ふきだ》したくなる。
白い黄ばんだ柿の花は最早到る処に落ちて、香気を放っていた。学士は弓の袋や、クスネの類を入れた鞄《かばん》を提げて歩きながら、
「ねえ、実はこういう話サ。私共の二番目の伜《せがれ》が、あれで子供仲間じゃナカナカ相撲《すもう》が取れるんですトサ。此頃《こないだ》もネ、弓の弦《つる》を褒美《ほうび》に貰って来ましたがネ、相撲の方の名が可笑《おか》しいんですよ。何だッて聞きましたらネ――沖の鮫《さめ》」
私は笑わずにいられなかった。学士も笑を制えかねるという風で、
「兄のやつも名前が有るんですよ。貴様は何とつけたと聞きましたら、父さんが弓が御好きだから、よく当るように矢当りとつけましたトサ。ええ、矢当りサ。子供というものは可笑しなものですネ」
こういう阿爺《おとっ》さんらしい話を聞きながら古い城門の前あたりまで行くと馬に乗った医者が私達に挨拶して通った。
学士は見送って、
「あの先生も、鶏に、馬に、小鳥に、朝顔――何でもやる人ですナ。菊の頃には菊を作るし、よく何処の田舎にも一人位はああいう御医者で奇人が有るもんです。『なアに他の奴等は、ありゃ医者じゃねえ、薬売りだ、とても話せない』なんて、エライ気焔《きえん》サ。でも、面白い気象の人で、在へでも行くと、薬代がなけりゃ畠の物でも何でもいいや、葱《ねぎ》が出来たら提げて来い位に言うものですから、百姓仲間には非常に受が好い……」
奇人はこの医者ばかりでは無い。旧士族で、閑散な日を送りかねて、千曲川へ釣《つり》に行く隠士風の人もあれば、姉と二人ぎり城門の傍《かたわら》に住んで、懐古園の方へ水を運んだり、役場の手伝いをしたりしている人もある。旧士族には奇人が多い。時世が、彼等を奇人にして了《しま》った。
もし君がこのあたりの士族屋敷の跡を通って、荒廃した土塀《どべい》、礎《いしずえ》ばかり残った桑畠なぞを見、離散した多くの家族の可傷《いたま》しい歴史を聞き、振返って本町、荒町の方に町人の繁昌《はんじょう》を望むなら、「時」の歩いた恐るべき足跡を思わずにいられなかろう。しかし他の土地へ行って、頭角を顕《あらわ》すような新しい人物は、大抵教育のある士族の子孫だともいう。
今、弓を提げて破壊された城址《しろあと》の坂道を上って行く学士も、ある藩の士族だ。校長は、江戸の御家人とかだ。休職の憲兵大尉で、学校の幹事と、漢学の教師とを兼ねている先生は、小諸藩の人だ。学士なぞは十九歳で戦争に出たこともあるとか。
私はこの古城址《こじょうし》に遊んで、君なぞの思いもよらないような風景を望んだ。それは茂った青葉のかげから、遠く白い山々を望む美しさだ。日本アルプスの谿々《たにだに》の雪は、ここから白壁を望むように見える。
懐古園内の藤、木蘭《もくれん》、躑躅《つつじ》、牡丹《ぼたん》なぞは一時花と花とが映り合って盛んな香気を発したが、今では最早濃い新緑の香に変って了った。千曲川は天主台の上まで登らなければ見られない。谷の深さは、それだけでも想像されよう。海のような浅間一帯の大傾斜は、その黒ずんだ松の樹の下へ行って、一線に六月の空に横《よこた》わる光景《さま》が見られる。既に君に話した烏帽子山麓の牧場、B君の住む根津村なぞは見えないまでも、そこから松林の向に指すことが出来る。私達の矢場を掩う欅《けやき》、楓《かえで》の緑も、その高い石垣の上から目の下に瞰下《みおろ》すことが出来る。
境内には見晴しの好い茶屋がある。そこに預けて置いた弓の道具を取出して、私は学士と一緒に苔蒸《こけむ》した石段を下りた。静かな矢場には、学校の仲間以外の顔も見えた。
「そもそも大弓を始めてから明日で一年に成ります」
「一年の御|稽古《けいこ》でも、しばらく休んでいると、まるで当らない。なんだか串談《じょうだん》のようですナ」
「こりゃ驚いた。尺二《しゃくに》ですぜ。しっかり御頼申《おたのもう》しますぜ」
「ボツン」
「そうはいかない――」
こんな話が、強弓《ごうきゅう》をひく漢学の先生や、体操の教師などの間に起る。理学士は一番弱い弓をひいたが、熱心でよく当った。
古城址といえば、全く人の住まないところのように君には想像されたろう。私は残った城門の傍《かたわら》にある門番と、園内の茶屋とを君に紹介した。ま
前へ
次へ
全48ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング