渇《きかつ》を癒《いや》すことが出来ない。
空は煙か雨かと思うほどで、傘さして通る人や、濡れて行く馬などの姿が眼につく。単調な軒の玉水の音も楽しい。
堅く縮こまっていた私の身体もいくらか延び延びとして来た。私は言い難き快感を覚えた。庭に行って見ると、汚《よご》れた雪の上に降りそそぐ音がする。屋外《そと》へ出て見ると、残った雪が雨のために溶けて、暗い色の土があらわれている。田畠も漸《ようや》く冬の眠から覚めかけたように、砂まじりの土の顔を見せる。黄ばんだ竹の林、まだ枯々とした柿、李《すもも》、その他眼にある木立の幹も枝も、皆な雨に濡れて、黒々と穢《きたな》い寝恍顔《ねぼけがお》をしていない物は無い。
流の音、雀の声も何となく陽気に聞えて来る。桑畠の桑の根元までも濡らすような雨だ。この泥濘《ぬかるみ》と雪解《ゆきげ》と冬の瓦解《がかい》の中で、うれしいものは少し延びた柳の枝だ。その枝を通して、夕方には黄ばんだ灰色の南の空を望んだ。
夜に入って、淋《さび》しく暖い雨垂の音を聞いていると、何となく春の近づくことを思わせる。
北山の狼《おおかみ》、その他
生徒と一緒に歩いていると、土地の種々な話を聞く。ある生徒が北山の狼の話を私にした。その足跡は里犬よりも大きく、糞《くそ》は毛と骨で――雨晒《あまざら》しになったのを農夫が熱の薬に用いる。それは兎や鳥なぞを捕えて食うためだという。お伽話《とぎばなし》の世界というものはこうした一寸した話のはしにも表れているような気がする。
野蛮な話を聞くこともある。ここには鶏を盗むことを商売にしている人がある。雄鶏《おんどり》と牝鶏《めんどり》と遊ぶところへ、釣針《つりばり》で餌《え》をくれ、鳥の咽喉《のど》に引掛けて釣取るという。犬を盗むものもある。それは黒砂糖で他《よそ》の家の犬を呼び出し、殺して煮て食い、皮は張付けて敷物に造るとか。
土地の話の序《ついで》だ。この辺の神棚には大きな目無し達磨《だるま》の飾ってあるのをよく見掛ける。上田の八日堂《ようかどう》と言って、その縁日に達磨を売る市が立つ。丁度東京の酉《とり》の市《いち》の賑《にぎわ》いだ。願い事が叶《かな》えば、その達磨に眼を入れて納める。私は海の口村の怪しげな温泉宿で一夜を送ったことがあったが、あんな奥にも達磨が置いてあるのを見た。
ここは養蚕地だから、蚕祭というのをする。その日は繭《まゆ》の形を米の粉で造り、笹の葉に載せて祭るのだ。
二月八日の道祖神《どうそじん》の祭は、いかにも子供の祭らしいものだ。土地の人は訛《なま》って「どうろく神」と呼んでいる。あの子供の好きなと言い伝える路傍の神様の小さな祠《ほこら》のところへ藁《わら》の馬に餅《もち》を載せて曳《ひ》いて行くのは、古めかしい無邪気な風俗だ。幼いものの楽《たのし》みとする日だ。
御辞儀
私達の学校の校長が小諸小学校の校堂に演説会のあったのを機会として、医者仲間の無能を攻撃したという出来事があった。先生の演説は直接には聞かなかったが、それがヤカマしい問題を惹起《ひきおこ》したことを、後で私は理学士から聞いた。一体先生がこの地方に退いて青年の教育を始めるまでには長い経歴を持って来た人で、随分町の相談にも預って種々な方面に意見の立てられる人だし、守山《もりやま》あたりの桃畠が開けたのも先生の力だと言われている位だ。とにかく、先生はエナアゼチックな勇健な体躯《たいく》を具えた、何か為ずにはいられないような人だ。こういう気象の先生だから、演説でもする場合には、ややもするとその飛沫《とばしり》が医者仲間なぞにまで飛んで行く。細心な理学士は又それを心配して私のところへ相談に来るという風だ。
ある晩、岡源という料理屋からの使で、警察の署長さんの手紙を持って来た。開けて見ると、私に来てくれとしてある。私はこの署長さんが仲裁の労を取ろうとしていることを薄々聞いていた。果して、岡源の二階には小諸医会の面々が集っていた。その時私は校長に代って、さきの失言を謝して貰いたいと言われた。なにしろ私は先生の演説を知らないのだから、謝して可いものかどうかの判断もつきかねた。謝すべきものなら先生が来て謝する、一応私は先生の意見を聞いてからのことにしようとした。この形成を看《み》て取った署長さんは、いきなり席を離れ、町の平和というものの為に、皆なの方へ向いて御辞儀をした。急に医者仲間も坐り直した。何事《なんに》も知らない私は譲る気は無かったが、署長さんの厚意に対しても頭を下げずにはいられなかった。御辞儀をしてこの二階を引取った時、つくづく私は田舎教師の勤めもツライものだと思った。
その翌日、私は中棚に校長を訪ねて、先生のために御辞儀をさせられたことを話して笑った。する
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